80 愛の結晶
「浮気、浮気、浮気!」
純にとって何度聞いたかわからない、嫉妬の雷雨が降り注ぐ。その間茜は純の頭部に垂沙織愛用のシャンプーを数度直接垂らすと、それで純の頭を泡まみれにした。
「目に入るとしみるよ」
沙織は純に対し目をつぶる様に指示を出すと、慣れた手つきで純の頭に手串を入れる。言われなくても目はつぶると純は目を閉じる。彼女の手串は少々力強く、汚れを落とすにしては過剰なまでに力が強かった。指の腹で洗いつつも、時折頭皮に沙織の爪が食い込んでくる。その手から嫉妬の怨念のような何かを純は感じる。
そして再度純を頭から湯に沈めると、今度は野菜を洗う様に、湯の中で純の髪を洗い始めた。泡が湯に溶け出し、白く濁る。湯から気泡が漏れ出す。気泡が徐々に小さくなるのを確認すると、沙織は茜と純を湯舟から出した。そこにはデートを行った際に、彼女の好みに美容室でセットされた髪は跡形もなく、濡れた長髪が顔にぴたりと張り付いているさまは、怨念めいた幽霊を連想させる。
茜は沙織の指示なくとも次の行動を推測し、意識が呼吸調整に向いている純に文字通り、風呂桶になみなみ注いだ冷水をぶっかける。冷たさに叫ぶ純は、ほどなくして力なく座りこんだ。そんな純の腕にかけられた、金属製の手錠の鎖を茜が引っ張りながら、その横に立つ沙織は冷水のような冷たい言葉を純に吐き捨てる。
「女子アナと、デート! できて、よかったね!!」
祝福するようなセリフと裏腹に、沙織は純の胸に足を置くと、そのまま足でドミノ倒しををするように押し倒した。押し倒された純の頭部に痛みが走る。けれどそれ以上に心が痛いのだと、沙織は叫んだ。
「痛い!」
蹴った沙織が痛みを叫んだのだ。
「なんで相談してくれないの? なんでそんなにひどいことするの? 好きな人が浮気してるのを知って平気だと思ってるの?」
倒れる純に馬乗りになりながら、沙織は続ける。
「なにしたの? 知らない服着て、あの女好みの髪にセットして、あいつ好みの男になって、なにがしたいの? あの女に、何であんなこと言ったの? ねえ、答えてよ!」
純は私のモノだと叫ぶように、沙織は言う。
「ダーリンは私の彼氏で、貴方の彼女は私なの! ちがう? ちがわない! あいつじゃない!」
わんわんと泣くように、沙織は叫ぶ。
「ねえ、その唇であいつに何を言ったの? その指であいつを触ったの? その唇であいつに、あいつに……」
わなわなと震える沙織の勢いが、急に沈下した。
その代わりに冬がやってきた。
足に錨を付けられた状態で海に沈められるようにゆっくり、ゆっくりと、沙織の手が純の首へと伸びていく。沙織の冷たい両手が純の首に触れる。細い指が純に絡み、絞首刑を告げる。
「キスしたよね?」
獰猛なワニを思わせるような瞳で、沙織は純に問いかける。その瞳は嘘、会話を反らすことを絶対に許さないと純に訴えている。顔を反らせば、首筋にがぶりと痛みが襲ってくる。
沙織が純の首筋を噛んだのだ。獲物を食らうワニのごとく、サメのごとく。そして純の体から何かを吸い出すように、じゅるると首筋を吸い始めた。唇をはがせば歯がたと真っ赤な痕が純の首筋に残る。
嬉しそうに沙織は、「ダーリンおいしい」と笑った。そしてまた首筋に歯を触れさせる。
もはや予断は許されない。
応えようにもアリジゴクの様にゆっくり、ゆっくり純の首に沙織の指が吸い付いていく。まるで沙織の指が純の首と同化するように、自然に自然に彼女の指に力が入る。餌を求める金魚の様に純は口をパクパクさせながら、なんとか沙織に「キスはしていない」と伝えることに成功した。
その言葉に沙織はさらに激昂した。純の首を絞める指が、首に爪が食い込んでいく。なぜ、どうして。純の言葉に嘘偽りはない。だからこそ純は沙織がどうして起こっているかがわからない。
事実だから問題なのだ。
『キスはしていない?』
沙織は純の言葉を脳裏で反芻する。
――ふざけるな!
千夏と純はキスをした。ただし、それは千夏からされたもので純からしたものではない。だから、『自分から』キスはしていないと、純は答えた。それがまずかった。
小さな暴君、羊の皮を被った怪物がようやく伴侶となれた羊を、本物の雌羊に奪われまいと行動する。肉食動物と草食動物では気持ちが通じ合えども、共存は難しい。難しいからこそ惹かれる、魅入られる。受け入れられる。けれど事が恋愛において、この暴君の心はグラス1杯にも満たないほどに狭量だ。暴君は徐々に白く美しくなる羊を見て感じる。
彼の精気が消えるたびに、自身の体に潜む二人の愛のスペースが満たされるような気がした。奪われるくらいなら――してやる。
「私、今なら産める気がする」
突如腹部を手で押さえながら処女懐胎を宣言する化物に、純は血の気が失せた顔をさらに青くさせる。




