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その言葉は本心だろうか、いや、きっと心より出た言葉だろう。理由として千夏は純の体に、心音に心地よさを感じる。徐々に徐々に速くなる純の鼓動に、彼女は自分が女として認識されていることを喜んだ。
そんな当たり前なことに喜びを覚えた千夏は狭い車内で純を拘束する。シートベルトで身動きが取れない純に対し、いつの間にかシートベルトを外していた千夏が大型犬のように純にじゃれる。
中年のドライバーは危ないですよと困り顔で注意をするも、千夏は聞き入れずに純に頬ずりを続ける。過剰なスキンシップが純を襲う。顔を真っ赤にする純に対し、千夏は照れてる、可愛いと攻めをやめない。何かをごまかすように、千夏は攻め続けた。
言い寄る男が多く、自身の美貌に自信を持っている千夏にとって、男を手玉に取るのは容易だった。ちょっと胸を当てて、押しを強くすればコロッと行く。今日の純なら堕とせる。落とせる? 落としたい? 堕とそう。千夏は終始攻め続けた。くすぐり、耳に息を吹きかけ、自慢のバストを押し付ける。生足を純の脚にかけると、向かい合う様に純の腰にまたがった彼女のフルコースに、純は必死に耐え続けた。しまいには純は彼女を引き離そうと最終手段として二つの毬を掴むも、彼女はそれが何? と相手にしない。むしろ炎の氷柱が解けるように、千夏はあはぁ、と蕩けた笑みを純に向ける。
狭い車内、もみ合う車内。獲物を追い続けた獣は一種のトランス状態に陥った。
結局テレビ局に着くまで千夏のおもちゃにされ続けた純は、息も絶え絶えでタクシーから降りた。逆に艶々とした肌で気分よく降りるのは千夏である。迷惑料と口止め料として、彼女は数万円多くタクシードライバーに渡して、車から降りた。
んんー、と固くなった体を伸ばしながら、いい天気だ。と空を見上げる。気分は晴れやか、絶好調だ。その背後に立つのはゾンビの様にフラフラと歩く純だ。絶不調、太陽の光で今にも解けそうな彼の歩みは、千夏の前で止まる。買ってもらったばかりの服はしわくちゃになり、目は魚の様に淀んでいる。、無言で見下された千夏は、役得でしょ? 光栄に思いなさいと笑っている。
そんな彼女に何も言う気力がなくなった純は、フラフラと駅へと続く道を行く。目には悔し涙を浮かべ、水面を漂うクラゲの様に彼は歩く。そんな哀れな背中を見せられた千夏はさすがに罪悪感が出てきたのか、純に近寄ろうとする。けれどそれより先に純に駆け寄った女がいた。
「ダーリン!」
心配そうに駆け寄ったのは正真正銘、純の彼女、今が旬、アイドルのさおりんこと淡路沙織である。今にも死にそうな彼を見た沙織は純に駆け寄ると、自殺者を引き止める様に背後からギュッと力強く抱き付いた。
純は沙織の柔らかい体に、千夏に勝るとも劣らない上質の絹のような柔肌が、彼に人の温もりを思い出させる。まるで赤子が母に包まれるような安心感を醸し出す沙織を見て、死人のような様相に血が通う。
「あっーー」
手を伸ばした彼女の手が見えない壁に阻まれる。
そしてその手は彼女の唇へと運ばれた。そして親指を、爪を噛んだ。
歯があたる音、柔らかい爪が欠けていく。水面に映る満たされない月が、更に欠けていく。
目の前の現実が、千夏は彼の隣に立つべき人物が自分では無かったことを自覚した。
だがその結論を、彼女は深い深い海の底へと沈めていく。
水面に映る男と女の姿に、自分の姿が映っていないことを、彼女は認めない。
「ああ、いいなぁ……」
ぼそりと漏らした彼女の言葉を聞き取れた人物はいたのだろうか。
――目の前に映る男の姿は、先ほどまで私に見せていた表情と違う。
私にもその表情を見せて、注いでと言う様に、千夏は男に惹かれていく。
「その姿は私のための姿、貴女のじゃないわ。さおりんさん」
嫉妬の牙に愛を注ぎ、千夏は沙織と対峙するべく歩みを進める。
そうともしらないで目を潤ませる純に対し、沙織はいつもと違う純の姿に動揺することなく、彼を受け入れる。辛かったでしょ、あっちに茜もいるから行こうと純を優しく導く。浮気をしてしまったことに対し謝罪をする純に、沙織は気にしないでと笑顔で答える。その笑顔は純にだけ向けられる特別な笑顔。たった一人の愛する男に向けられたその表情に、千夏はもちろん純たちの様子を遠巻きに見ていた者たちの心は奪われた。
さながらそれは天上界の花畑。不浄な心を清めてくれるものだった。野次馬たちの中には沙織の菩薩のような慈愛に満ちた様子を見てファンとなった者もいた。けれどその中で彼女に対し再度敵意をむき出しにする者がいた。純の精気を吸い取ったサキュバスこと大槻千夏である。
一旦は沙織のオーラにあてられた彼女は、自分がしていた行為が何て愚かなのだと認識した。だが彼女は沙織の狙いをうっすらとだが感づき始めた。以前沙織に痛い目を見せられたことを思い出す。
――たかが男一人、落とすのはたやすい。傷を負った彼を癒すのは沙織の役目でも、彼の傍にいるのはあんたじゃない。
彼の素養を知り、自分をステップアップさせるためには彼がうってつけだ。自分が企画した特番で、彼女は自分が鯉から龍になれると確信する。冴えない一般男性をプロデュースして、人生を変えさせるのだ。それはさながら現代版の『マイ・フェア。レディ』だ。
そしてそのシンデレラとなるのが、彼なのだ。




