07 色
我慢比べのようだと沙織は思う。なぜなら互いに視線をずらさないから。視線をそらしたほうが負け。負けないよ。沙織は思う。純の大きな瞳。沙織とは違い少し日焼けした健康的な肌。視線の先に移る一つ一つが綺麗だと。汗のにおいも嫌いではない。純の若さが分かる。伝わってくる。
胸の鼓動が早くなっていく。静まって、静まれ、落ち着いて。今はダメ。
自身に言い聞かすように胸の中で強く言い聞かす。心の中の獣を鞭で押しとどめようとする調教師姿の自分が見える。
ダーリンは決してひ弱な体躯では無い。むしろそれなりに筋肉も付いた細身だ。無駄な脂肪がついていない。にも拘わらず、押しに弱い点や、はっきりとノーと言えない優しさからどことなく自信の無さがうかがえる。
今すぐにでも食べてしまいたい衝動に駆り立てられながら、沙織ははっとなった。
叩かれているのは私なの? それとも……。
視線を先にそらしたのは、以外にも純ではなかった。
沙織が視線を先に逸らした。根競べは沙織の負けである。恥ずかしさを隠すように手団扇で顔を仰ぐ姿が女性らしさも垣間見え、可愛いさを醸し出す。
そんな沙織と反対に、商社であるはずの純の動きは止まっている。。
「あはは、ダーリンに見られて照れくさくなっちゃった。沙織のまーけ」
語尾を上げてゲーム感覚であったことを純に伝える。それでも純の動きはなく、蛇ににらまれたカエルのように動かない。そんな純を見た沙織は、仕方がない子と言った様子で動かない純のおでこにご褒美だよと、キスをした。
眠り姫を覚ますような沙織のキス、温もりにビクンと大きな反応を見せる純を見て沙織ははにかんで元の席へと戻った。
「さ、沙織さん!」
あまりからかわないでくれと、純はテレを隠すために口撃した。しかし暖簾に腕押し。沙織は純が照れ隠しだと見抜いているため、ニマニマと笑って黙ってキスマークの付いたおでこを見ている。
「あーも-、顔洗ってきます!」
席を立ちあがり先ほどのご褒美を受けたおでこを手で隠しながら洗面所へ向かう純と、行ってらっしゃいと手を振り見送る沙織。
「まったく、食事中に何をしているんですか」
今のこの人には何を言っても無駄と知りつつも、食事中だと窘めるマネージャーこと茜。
「ごっめーん、でもさー、しかたないよねえ」
「何が仕方がないんですか、何が」
ポリポリと出来合いの化学調味料がたっぷり入ったキュウリの漬物をかじる茜。
「茜ちゃん、それ体に悪そうな色してるからやめなってば。塩分も濃いよ?」
「ほっといてください。ジャンク感あるものも好きなので。好みは人それぞれでしょう」
自分用に買ったのだから気にしないでくれと、茜は言う。
「まーでも、茜ちゃんの気持ちもわかるかも」
「はい?」
いきなりどうしたと、茜は問い返す。
「ダーリンの危うさっていうのかな? あか抜けてないっていうか……、素材はいいのに! みたいな感じさ、よくない?」
「話に脈絡が見えないのですが」
お茶をすすりながら、茜が聞き返す。
「うーんと、まあ要するにだね、ワトソン君」
「誰がワトソンですか、先生」
「お、いいね、そのノリ」
「で、なんですか?」
「ダーリンを染めるのは、今後のパートナー次第ってことさ」
明るく告げる沙織の言葉。
彼の将来は彼女次第。
支えてくれる人によって、すべてが決まる。
「自信家ですね、彼も大学生とはいえ、立派な大人では?」
「地に足がついてないってことさ」
探偵風にしゃべる沙織。口にはいつのまにかパイプを模した容器に入れられたチョコを咥えている。
「さあ、彼のイカロスの翼を落とすのは、だれかにゃ~?」
キャラをはっきりしろ。そう言いかけて、茜は口を噤んだ。
「もしかしたら茜ちゃんかもね」
ちらりと含みのある笑み、もとい負けないよと宣戦布告をするように沙織は言葉のジャブを放つ。けれどそれをひょいと払った茜は小さくため息をついた。
「アラサーは面倒ですね、まったく」
メガネの細いフレームをくいと上げ、仕事人モードで言い返す。
「私だったら彼を落とすよりもプロデュースして一流にして見せます」
色濃いなんてもっての他と、彼女は言う。けれどその姿をバカにするように、面白いと言うように沙織は笑う。
「それって自分色に染めるって言ってるのと変わらないよ?」
失言だったと茜は悔いる。
「あーもー、茜ちゃんもかわいいにゃー」
茜の背後に回り持ち上げるように胸を揉んでいく。程よいサイズ。選べる下着もたくさんあって楽しいでしょうと、沙織は言う。
「きょ、きゅおうみ、ありませんから!」
力づくで沙織を振り払い、茜は服装を正す。
「言葉言葉、あはは」
笑う沙織と、すねる茜。
「ごめんってば、ねー、茜ちゃんってば」
沙織はご機嫌を取るように冷蔵庫から茜が買ってきたコンビニクレープを手渡した。
「でもさー、茜ちゃん。さっきの案だけどさ」
むくれ面でクレープを食べる茜の耳元で沙織は囁いた。楔を打った。
「ダーリンは私のだから、勝手な動きはしないでね」
「じゃないと私、何しちゃうかわからないから」
打ち込む。一本、二本、三本と。
「例えば~~とか」
一瞬ではあれど禅問答を繰り返し、胸の裡と向かい合った沙織は、ある一つの結論に至った。
――ダーリンは私のものなんだから、ネ!
その心は、裡には、薄暗いサーカステントの中で鞭を振るう調教師姿の沙織と、野生から捕らえてきたばかりの獣のような姿の彼がいた。
――しつけは大事だよね、ダーリン。
床を跳ねて響く鞭の音、四つの杭、それをロープで結んだ一畳も無い四角形のスペースに押し込められた彼。響く鞭の音。獣に向かって調教師が何かを叫ぶ。テントの中の二人の表情を照らすライトはなく、両者の心中を把握することが出来なかった。
鞭の音が響く。