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だって結婚しているわけじゃないから。沙織は他人となった今だからこそ、他人行儀に、それでもほんの少しの家族愛を含みながら彼を家へと招く。彼が出ていったせいで彼の私物が減った家。広く感じる室内。寂しい寝室。たった2週間程度が今までの何十倍、それ以上に長く感じた彼女の寂しさは純の比ではない。
そんな沙織の前に、家に、彼が帰ってきた。おもわず彼を背にして生唾を飲み込む。彼に聞こえていないか、ちらりと後ろを見る。ホっ、気が付いてない。彼を居間へと案内する。ゆっくりと、こぼさないように冷蔵庫から出したばかりの市販されている1.5リットルのペットボトルに入ったレモンティーをグラスに注ぎ、彼の前へと差し出す。
怪しそうにグラスを眺める純の姿にくすりと笑いながら、毒なんていれていないよと彼に教える。ええーっと少し間延びした驚いた様子を見せる彼に、沙織はマンボウの様に頬を膨らませて怒ったふりをした。
そんな彼女のしぐさを見た純は安心したようにレモンティーを飲んだ。喉をひんやりとした紅茶の甘味とレモンの酸味が流れていく。そのほんの少しの刺激が心地よく、彼は一気にグラスを空にした。空になったグラスには二杯目と彼女がレモンティーを注ぐ。
注ぎ終えた沙織は2杯目を飲み始めている純の隣の椅子に座った。ペットボトルをテーブルに置くと、彼女は純の手に自身の白い手を添えた。半分ほど空になったグラスを置いた純の手は、沙織の手が添えられたことでピクリと反応を見せる。そして彼女に名を呼ばれたことで彼は彼女と見つめあう。
彼女の手に従う様に、彼はグラスから手を離す。そして絡まる彼女の細指、摩るような上下の動きに困惑を隠せない。そして彼女はその手を離すと、純の長い前髪をかき上げた。
ふふふと笑う彼女の表情はどことなく満足げだ。まっすぐに見つめられた視線は彼の瞳をロックオン。
「あなたの瞳が好き。弱虫そうで、でも実は芯が通っている彼の瞳。私に愛を向けるその熱視線、何かを言いたげに小さく震わせる彼の唇は思わず塞ぎたくなってしまう」
徐々に頬を染めて情欲を醸し出してきた彼女の表情。獲物を見つけた獣の様に彼女は思わず唇の端を舌で舐める。そしてもう我慢できないと、彼女は身を乗り出して彼に自身のセックスアピールに最適な武器をぶつけた。ふわり、柔らかく彼の胸に身を乗り出して抱き付いた彼女。抱き付いた際にテーブルにぶつかった衝撃でグラスが倒れレモンティーがテーブルからぽたぽたと雨を穿つ。
「こぼれ――」
「そう、こぼれちゃってるの」
だから早くフローリングの床を拭かないとと、純は立ち上がろうとする。けれど彼女は彼に更に体重を預け、彼とともに転倒した。純の小さなうめき声と、沙織のきゃっと可愛らしい嬌声が混ざり合う。
そして倒れた純に馬乗りになった沙織は、倒れた拍子に少し乱れた彼の前髪をどかした。そして彼女は両手で彼のフェイスラインをゆっくりとなぞる。少し乱れた吐息をごまかすように彼女はすうっと静かに彼の顔に息をふきかけた。
彼を惑わせる甘い幻夢を見せるために、少しでも自分を感じてほしいと願掛けをして彼は彼に耽美な笑みを浮かべる。その姿に小さくびくっと反応を見せた純の相変わらずの機微に沙織は安堵しながら、ああ、私って我慢弱いなぁと心の中でにやりと笑った。けれどそんな自分を恥じることなく、むしろ彼の前では素直でありたいと自己肯定した彼女はゆっくりと、聞き漏らしが無いように口を開いた。
「愛してる」
「好き、とかじゃないんですね」
純は彼女の告白を聞き、おもわず告白の返事をする前につっこみをいれてしまった。
「愛は不変だからね、いや、変わるのかな?」
グイっと顔を近づけた彼女は、熱を測るように彼と自分のおでこをぴたりとくっ付けた。そして嬉しそうに頬をほころばせて笑ったと思えば、再度蜜を彼に流し込む。ロックオンされた彼の唇と彼女のピンク色の唇が、ガイドビーコンで結ばれる。
「純君、いや、やっぱりダーリン」
嫌なら突き放して。でも嫌じゃないならーー受け入れて。
彼に完全に身を預ける様に、彼女は彼と口づけを交わす。瞳を閉じて唇を交わす彼女に対し、純もまた同じようにゆっくりと瞼を閉じた。キスをしながら彼女の肩に触れた時、彼女の身が少し震えているのが分かった。
付き合って相手の思考が分かるのは彼女の特権じゃない。純もまた彼女の思考を理解することが出来た。極度の心配性なのだ。ほかの女と目を合わせるだけでも不安になり、夜も眠れなくなる彼女が、今もキスをしながら拒絶されることを恐れ涙を流す沙織のことが、たまらなく愛おしい。
肩に添えられた手をゆっくりと離すと、その手を彼女の背と頭に回した。抱きしめながら彼女の頭を撫でるその手は指は、彼女のふわりとした髪に絡みつく。まるでもう離さないでと訴えかける様に、彼女の柔らかく癖のかかった髪の毛が純に訴えかける。その熱が彼女の髪を伝って純に訴えかける。
純はその想いに応える義務がある。だからこそ彼は自分がやってきたことを振り返った。
「好きです」
「そこは愛してるじゃないんだ、ふーん」




