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06

夢のようだ。自分がこんなことを言ってもらえるなんて。しかも、好きなアイドルに。

 幻夢のような、桃源郷のように心地よいさおりんのボイス。

 純の警戒心は溶けていく。とろとろと、とろとろと。 

沙織もそれを知っているのだろう。一歩一歩純に近づくと、横に立ち純の肩に両手を添える。そして背伸びをして純の耳元に顔を寄せた。更に言霊の様に純に自身の気持ちを楔として打ち込んでいくために。

 脳を溶かすようなボイス。羽毛のようなくすぐったさ。どんなイベントよりも近くで彼女の吐息を感じられるその光景は、ある種の桃源郷を思わせる。それが一時的なイベントだったらの話だが。

「あ、あの、」

 トリップしそうな脳にまだ残っていた警戒心たちがカンカンと警鐘を鳴らす。何とか声を絞り出した純は沙織に止めるよう伝えるつもりであるが、婚期の迫った女性はねらった獲物を逃がさない。

「ダーリン、ご飯の途中だよ? ね、まずは美味しいご飯食べてから」

 体が資本である彼女の説得力のある言葉により、また作ってくれた茜に対しても食事中に騒ぐのは失礼だと諭された純は、その言葉に同意し席に着きなおした。上手くはぐらかされた気がしてならない純であるが、かといってこれといった反論も思いつかなった。そのためなし崩し的にではあるが、食事を再開することにした。

「それでは料理を作ってくれた茜ちゃん。そして生産者や食物に対して感謝をこめて、いただきます」

 三人で両手を合わせていただきます。小さかった時の給食の時間を思い出させる沙織の所作は、どことなく愛らしい。元々さおりんこと沙織のファンであった純は、先ほどのことなどまるでなかったようにニコニコと食事をとる沙織をつい目で追ってしまう。

 沙織と目が合った純。照れくさそうに視線を逸らす純に対し、沙織は首を小さく傾けて笑みを向ける。さらに気恥ずかしくなってしまった純はそれを隠すように米をかっこんでいく。それでもやはりちらりちらりと視線は沙織のほうへ。 

――こうして見ているだけなら、幸せなのになあ。

 テレビでしか見られない景色、非日常が今まさに現実に存在している。

 純の心に動揺と同量の幸福感が満たされていく。

「ダーリン」

 席から立ち上がった沙織が愛する男の名を呼んだ。

「な、なんですか?」

 急に話しかけられた純は思わず咽ながら返事を返す。そんな純を気にかけるように心配そうに見つめる沙織に対し、純は大丈夫とせき込みながら返す。

「全然大丈夫そうに見えないよ!」

 立ち上がった沙織はそのまま純の背中に回った。

 純の脳裏に先ほどの情景がフラッシュバックする。そのため純はせき込みながらも身を守るように肩に力を入れて、背中を丸ませた。沙織はといえば、そんな純の背中を少し寂しげに見つめながらも、少しの間を置いたのちに純の背中に手を添えた。

 びくりと大きな反応を見せる純に、沙織は目を細め、いぶかしげに純の背中から彼のぬくもりを感じた。うっすらと汗ばんでいる純のシャツ。首筋に一筋の汗が流れる。よく見れば体が少し震えている。

 咳を少しでも鎮めようと沙織は上下にゆっくりと自身の絹の様に白くやわらかな手のひらを動かす。純がなおもびくりと背中を緊張させる。

「どうして」 

 無意識に出た言葉。

 けれどどうしてその言葉が出たか沙織は理解した。

――せき込んでいる彼は聞こえてないみたい。

よかった、こんな私を見られたくないもの。

よくケアのされた、きめの細かな白い手から彼の気持ちがわかる。

戸惑い、困惑、幸せ、フコウ? カエリタイ? 

でもだーめ、ダーリンの帰る場所はここでしょ?

一度巣に絡めとられた男は逃げられない。

女王様に会うまでは、ね。

「あ、ダーリン咳止まったみたいだね」

 今後のことを考えていた矢先、沙織は純に見られていることを知った。

 撫でていたはずの手も止まっており、純も背後にいる沙織のほうを向き、「も、もう大丈夫です。ありがとうございます」と礼を言っている。

「あは、お礼なんていらないよ。大事にならなくてよかった」

 自身の今できうる最高のスマイルで返す。視線の先はもちろんダーリンこと純の瞳。

 ――もー、そんなに見つめられたら照れちゃうよ。

 純の表情は雨の中捨てられた子犬の様に愛らしい。

 拾って助けてあげなくちゃ。かわいい子犬さん。


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