59 二人の糸
「俺は沙織さんが好きですよ」
強気な発言と裏腹に恥ずかしそうに自分の首に手を置きながら、純は言い終えるとプイっと顔を沙織からそむけた。悔しいのか語尾に力がない。もにょもにょと口を動かしている。
「録音しちゃったけどいいの? いいよね? いいよねぇ!」
瞳に明かりを灯した沙織は、食い気味で純の真意を確かめる。
「そ、それってプロポーズってことだよね? ね? あ、でも婚姻届けもうないよ」
ポケットから白紙の婚姻届けを純に見せる。それを純が笑顔で千切る。再度沙織が婚姻届けをポケットから出す。純が破る。それの繰り返し。そして沙織がやめいと純の手を掴んだ。その手の上に空いた純の手が重なる。頬を染める沙織は純の顔をゆっくりと見上げた。
髪に隠れて見えにくい純の思考だが、一緒に過ごした濃密な時間が沙織に彼を理解する時間を与えた。
――わかる、わかる、わかる。
――やっぱり純君、私の事。
「好きなんだ……」
自分で口にした言葉を自分で再確認し、ひゃっほうと両手を上げて万歳をしたと思えば、今度は泣き出してしまう。ぶわっと噴出した涙を、純は抱きしめることでそれを包んだ。そして沙織の小さな頭をゆったりと撫でる。ふわりとした沙織の髪が、純の指にすっと絡む。
「さっきから忙しい人ですね、本当に」
困った人だと純は笑う。手のかかる人だな、と。だけどだからこそ、惹かれていく。年の差を忘れてしまう彼女の姿。その器の中に、夜叉の心が潜んでいる。今も純に抱きしめられながら沙織は愛の糸を張り巡らせる。純の背を掴む柔らかくか細い10本の指から見えない糸を垂らしていく。ばれないように、気づかれてもすでに手遅れなほどに。
「純君、純君」
アカデミー賞ばりの熱演で、彼女は純にすがりつく。涙を流し、声を震わせる。そして純の背中に爪を立てる。捨てたくせに、捨てたくせに、捨てたくせに捨てたくせに捨てたくせにステタクセニ。どの口がほざくのか、ドノクチガホザクノカ。
沸点を超えた沙織、すぅーっと血の気が引いたと思えば、かっと獰猛な青白い炎を瞳に宿す。まるでそれは人を焼き焦がす鬼火の様で、純の背に回した腕が彼の身を焦がす。
「ほしいの、あなたが、あなたがほしい。純君の心に、私を置いて。居場所を頂戴」
「何にもできない俺でよければ」
喜んで人身御供となりましょう。純が抱きしめる力を強めて沙織に応える。これ以上言葉はいらなかった。契約成立。陰と陽が結ぶように深く深く、力強く口づけを交わした。道行く通行人がいぶかし気に二人を見る。けれど二人の世界には彼らはあくまで観衆であって演者ではない。気にする必要がないモノだった。故に二人は二人だけの世界を作り出す。
「で、結婚はいつにする?」
「だから結婚はしませんってば。俺は貴女をまだ養えない」
「じゃあ付き合って」
「それなら喜んで」
「にひひ、いっぱいいっぱい愛してあげるからね。あとダーリンならヒモでもオッケー」
「程々にお願いします。あとヒモになりたくないですから、俺」
また折られたくはないですからと純が笑う。
「えー」
どうしようかなぁと悩む様子を見せる沙織は、自分がどれだけ純を愛しているかを言葉で示す。
「骨まで私は愛せるよ」
一瞬純があっけにとられる。
「腓骨だろうが恥骨も趾骨も、なんだって愛せるよ。貴方がどんな姿になろうとも」
沙織から距離を置き、徐々に徐々に沙織から離れていく。やばい、この感じはやばいと小動物系察知力で純は退却準備をする。
「これからよろしくね、純君」
逃げようと翻った純の腕を沙織はしっかり握ってくぎを刺す。彼女の小さな掌は見た目とは裏腹にリンゴを握りつぶせるくらい力強い。純も観念したかのように、ぎぎぎと顔だけ沙織の方に向ける。そしてぎぎぎと油の切れたさびたロボットの様に口を開いた。
「い、いたいのはいやだよさおりさん」
「じゃあやめる」
にぱーっとあどけない笑みを浮かべながら、沙織はゆっくりと手の力を抜いていく。代わりに今度は純の指と自分の指を彼女は恋人の様に絡ませる。いや、恋人になるからこそ改めて純と手を握りあった。そして純と一緒に家路を行く。太陽の日差しを浴びた、身も心もぽかぽかと温かい気持ちになりながら彼女は彼に挨拶をした。
「おかえり、はまだ早いかな」




