54 バイバイ
いまさら何を思っているんだと純は頭を抱える。ロダンの考える人の彫像の様に彼はぼそりと後悔の念をつぶやく。今さら名残惜しくなって何がしたいんだよ、と。トイレから出て居間で茜が置いていった吐しゃ薬とスポドリを飲みながら、まるで一人で晩酌をするようにしっぽりとした様子を見せる。
寝室の方では茜と沙織が眠っている。寝室の方を見ながら純は沙織との別れがこれでいいのか、悩んでいた。客観的に見れば自分はなんて悪いやつなんだろうと自己嫌悪に陥ってしまう。
だってそうだろう、アイドルに気軽に声をかけたばかりではなく、あろうことか一緒に暮らしたんだ。そしてあろうことか、あろうことか……純は顔を真っ赤にしてグラビア誌に載っていた水着姿の沙織より際どい恰好、肌色面積の広い姿を想像してしまう。
離れるとわかったからか、妙に楽しかったことだけ思い出してしまう。悲しいかな男としての良い思い出も、鮮明に覚えている。今思えばこれが人生初のモテ期だったと言っても過言ではないだろう。
だからこそ純はペットボトルをグラスに見立て掲げる。常夜灯のみついた誰もいない居間で一人、ぼそりと呟く。
「理不尽なこのモテ期? に乾杯。そして沙織さんに祝福を」
そうして純はペットボトルを空にすると、再度不愉快な腹の音を響かせてトイレにダッシュした。結局純はゆっくりと温かい毛布で寝ることは出来そうになかった。
「ええ、そういうことだったの!?」
朝食に焼かれた半熟目玉焼きを食べながら、沙織が驚いた声を上げる。茜はこのお馬鹿さんはと呆れた様子を見せる。
「だって、負けたくなかったんだもん」
下手くそな味付けの理由、複雑な味付けとは正反対のシンプルな理由。女の嫉妬である。そして沙織は味付けの中身を茜に教える。材料は茜と同じ。肉は赤みの多い牛肉、シンプルにカレールーとクリームシチューやビーフシチューのルーを適当にブレンド。そして旨みは牛乳とトマト。これで甘みも酸味もばっちりなはず、そしてタバスコでアクセントを加えて煮詰める。途中酸味が目に染みたから体に優しい甘い味付けにするべくグラニュー糖を大匙5杯。
「ルーをブレンドする事態、食品会社に対する冒涜です。それに何ですか、そのふざけた味付けは」
「だってぇ……美味しいと思ったんだもん」
多少ならともかく、やりすぎだと茜は叱る。叱られた沙織は子犬の様にしょんぼりしてしまって思わず抱きしめたい衝動に駆られつつも、
自分の手綱は自分で引くと茜は自分を律する。そして心を鬼にして沙織を叱った。
「今後勝手な料理は禁止します」
死刑宣告をされたように沙織はショックを受ける。そして純の方をちらりと見る。茜の作った卵とねぎの入ったおじやを食べながら、純は優しく笑顔で返事をする。それはまるで薄幸の美丈夫、髪を後ろで結えば平成の沖田総司だと頬を染める。
「ねえねえ、ダーリンは私の手料理また食べたいよね」
「ええ、そうですね」
覇気のない返事に沙織は自分が作ったせいもあり罪悪感を感じている。純の笑顔が無理をしていることも理解している。痛々しい包帯もすべて自分が振りまいた行為であることも自覚している。
「私って重い?」
沙織の口から今思っている事がこぼれてしまった。
「いいえ、素敵な人ですよ」
その一言で沙織は救われた。体を心を優しく母体に包まれたような温かい気持ちになる。
「ほんと!?」
「ええ、本当です」
おじやを口に運びながら純は言う。沙織はテーブルに身を乗り出し、もっと言って、もっと褒めて。といつも通りしっぽを振る。
「俺、たぶん今すごい幸せです」
コップに入った白湯を飲み干しながら、純はしんみりと本音をこぼした。
長い前髪からうっすらと覗かせる優しい垂れ目。純の笑顔に対し沙織たちは顔を真っ赤にさせる。蠱惑的な眼だ、金属と磁石の様に惹かれあうせいだろうか、惚れたものの負けだろうか。沙織は純の瞳が好きだ。でも常に見たいわけではない。だって見ていると自分が自分でいられなくなりそうだから。現に今も抱きしめたい衝動に駆られながら、それを戒める様に服の裾を沙織はぎゅっと握っている。
そして何やら言いたげに、けれど言えばこの夢のような空間が破壊されるのではないかと恐怖に口ごもるように、沙織はパクパクと口を動かしている。その唇を純は塞いだ。テーブルに身を乗り出して、沙織の頬に手を添えながら、まるで食後のデザートを頬ばるように。
上唇を食んでから、そして沙織の唇を奪う。沙織は目を閉じてそれを甘んじて受ける。いや、無血開城と言った方が正確だろう。恋人の様に、それでいてどこか今生の別れとでも言う様に純は沙織と口づけを交わした。
それは感謝の表れだろう。痛みは夢から覚めるための通行料。彼女の頬を触れる指が痛む。包帯からも彼女の優しさが伝わってくる。そして彼女が気づいていることも分かった。
「純君、私から離れようとしてるでしょ」
糸を引きながら口を離した沙織は名探偵の様にはっきり告げる。
殺気に満ちた彼女の瞳は純の体を縄の様に金縛る。けれどこの緊張感は、今までと少し違った。きつく締めあげられたかと思ったら、それはすぐに解かれる。独り立ちする息子を見送るように、沙織は純の頭を撫でる。
「ありがとう、仮初だったけど夫婦生活楽しかったよ」
その一言は解放宣言と同義だった。
思わず茜が本当にいいのかと確認をとった。結果はイエス。純をこの家から出すというのだ。
「夫婦の証も破かれちゃったし、これ以上やるとただの監禁になっちゃうからね」
だからそんなに悲しそうな顔をしないで、純君と沙織は芸能生活で培った演技で笑顔を作った。自分の心を殺して。
――あ〃、無理してるなぁ、私。
無理をしている。
何で泣くんだろう。
涙をすくってくれる指がつらい。
その指を私は拒絶する。
嫌な女だなぁ。
――俺って本当に情けない奴だな。
慰めるための言葉が出ない。
偽りの笑みを向けないでくれ。
慰めるための偽りの愛が封じられている。
適当にどうして、どうして彼女に甘い言葉を投げられないんだろう。
なぜ、どうして?
怖いからか、責任を取りたくないからか?
だったらどうして拒絶をしない。
断らないことが優しさだとでも思っているのか。
――なんで、どうして?
偽善はよくて、どうして偽愛はダメなのか。
足枷としては重過ぎる。支えるにしてはもろ過ぎる。まるで葦だ。
オマエハナニガシタイノカ?
オマエハオンナヲドウシタイノカ?
真っ白なキャンバスを淀んだ赤で汚して楽しいの?
ほら見て、彼が困っている。
ほら見て、彼女の笑顔の仮面の下にあるものを。
今まで女性と接する機会が少なかったためか、純は深く考え込んでしまった。気軽に女性と付き合うという考え方が失われていたのかもしれない。だからこそ純は、涙を流す。
「俺、沙織さんと結婚……無理です」
ためらいがちに、伏し目がちに放った一言に、沙織は明るく返事をする。
「知ってたよ」
だからバイバイ、ダーリン。




