53 愛が重いと消化が出来ない
折られた指の治療のために純はスマホで近くの整形外科のある病院へ向かう。混んでないといいなぁとのんきなことを考えつつ、向かった病院は願い通り混んではいなかった。ほっとしつつ案内された診察室ではまだ若い女医が待っていた。雰囲気がどことなく茜と似ている人だなぁと純は思った。
「外科医の能登和香です」
テンプレートな問診から始まり、レントゲンを撮るために一度診察室を出た。撮影後少し待合室が混んでいるなぁと思いつつも、診察室へ再度案内された純は女医に簡潔明瞭に骨折ですね。と伝えられた。
それより、と女医は純の前髪をかき上げる。近づいてきた彼女のぷっくらと厚い唇と口元のほくろがどことなくセクシーで、一瞬見とれかけるも純は彼女の手を何をするんですかと払った。能登は純の長い前髪は傷跡を隠していると思ったと悪びれた様子はなかった。
「それより今日はどうしてここへ?」
女医の簡単な質問に純は口ごもった。ケガの理由を伝える際に本当の理由を言うわけにもいかず、正当な理由をまだ研修医を終えたばかりっぽい堅物そうな能登に理由を伝える。
「ころびました」
「ふーん、転んだ、と。器用に薬指だけ骨折、ですか? にしては棒読みで怪しいですね」
「はいころびました」
真剣なまなざしで純は女医に嘘を伝える。すると女医が真剣にカルテを書いたふりをして、ふとペンを置いた。そして撮ったばかりのレントゲン図を見ながら純の方をちらりと見る。
「大方女だろう、そんなことをするなんて」
驚く純の顔を見てやはりなと女医は厚い唇にボールペンを触れさせながら笑う。あたふたと言い訳でこの場を繕おうとしている純を見た能登は純の薬指を包帯で固定しながらさも当たり前の様に
「私も女だからな、それくらいわかる。と言うかよくやったよ」
と笑った。腕を組むと沙織には少し劣るも豊満なバストが強調される。傍にいる同年代程度の看護師も同意を求められて苦笑いを浮かべている。
「まあただの骨折だ。後遺症は残らないだろうよ」
一応痛み止めを処方してやると彼女は言うと、次の患者が待っているからとそそくさと純を診察室から追い出した。帰り際純の方を呼び止めた女医だが、「その髪型は……いや。やめておこう」と、聞かなかったことにしてくれと手でさっさと出ていくよう指示を出した。
1時間ほどした後に純が指を包帯で固定した状態で家に戻ると、二人が心配した様子で玄関から出てくるところと鉢合わせした。時が止まったように二人は純の方を見て固まると両者、特に背の小さい沙織がぶわっと目に涙を浮かべる。
「……ただいま?」
純のとぼけたような挨拶に対し、沙織は泣きながら抱き付いた。
「バカ……」
「もう戻ってこないかと思いましたよ、純さん」
肩をすくめて茜が言う。その眼もとは少し腫れて赤かった。
えーっとと純は右手で頬をかきながら、抱き付いている沙織の頭を撫でつつ両者を交互に見る。そして申し訳なさそうに
「ご心配おかけしました」
と二人に愛想笑いを浮かべながら帰宅の報告を済ませた。
その夜純は腹を下した。
苦しみながらトイレにこもる純は、彼が何かの奇病に当たったのではないかとトイレの前で狼狽える沙織に、トイレの中から震え今にも途絶えそうなか細い声で返事をする。
「だ、だいじうう……ですよ」
「全然大丈夫じゃなぁい!」
開けろ開けろと借金取りの様に乱暴にドアを叩く沙織の首根っこを、茜はやれやれと言ったように引っ張っていく。あーんと口惜しそうな声を出す沙織を寝室へと引っ張っていく。トイレの中で純は徐々に遠くなっていく沙織の声を聴きながら、これで安心してトイレに籠れると両手を合わせて茜に感謝する。
そしてぐぎゅるるるとまたビッグウェーブが襲ってきたなと腹を抑える。
ことの発端となった冷蔵庫にあった傷んだ汁物、沙織が用意していたのは二つ。そのうち一つは茜が匂いを嗅いで即座に流しへと運ばれた。沙織は用意していたはずのタッパーの櫃がないことを不思議に思わず、純が食べてくれたのだと歓喜した。けれどその直後に茜から説教を食らったのは言うまでもない。
「まったく、傷んでるモノを冷蔵庫に入れないでください」
「だって、愛情籠ってたし……」
「愛はいずれ腐るものです」
「ひっどーい」
「事実食あたりしたでしょうが」
「愛が重すぎただけだもん!」
愛は永遠だもんと絵本を愛する少女の様に、沙織は言う。茜は
「そのせいで純さんがお腹を下しているの理解しなさい!」
純も純だと茜は怒っている。沙織の思いを無下にしたくないのは分かるが、いくらなんでも傷んでいると知りながら完食するのはバカだろうと茜は沙織を寝室で寝かしつけると冷蔵庫から取り出しておいた常温のスポーツドリンクと独特のくすり臭さが特徴の吐しゃ薬が入った瓶をことりとトイレの前に置いた。
「脱水になる前に飲んでください。場合によっては夜間病院へ連れていく」とだけ言うと、茜は純のいるトイレのドアにもたれかかった。黄昏る様子でシミ一つない天井を見上げながら茜は「ああそれと、沙織さんが純さんの手料理を喜んでましたよ。何枚も写真を撮っていました」、「それとシチューもお替りをしていましたし、私もおいしいと思いました。ごちそうさまです」、「最後に本日中に荷物をまとめる準備をお願いします」とだけ言い、何事もなかったようにその場から去っていった。
「荷物をまとめる、かぁ……」




