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踏まれたことで一瞬出来た茜の隙を突き、沙織は両手で茜の胸を押して突き放す。そして即座に沙織はベッドにいる純に向かってダイブする。そしてマーキングをするように頭を順にこすりつける。
「ダーリンは私のものだ、ダーリンは私と一緒にいるの!」
泣きながら訴える姿は、どこか幼かった。大事なお人形を守る少女の様だった。けれどその守るべきものは、人形じゃない。痛みに耐えながら、純が沙織を否定するように沙織の胸を押して距離を置こうとする。ふくよかな毬が純の手にフィットする。ほんのりうれしそうな表情を見せる妻に、純は無礼で返す。沙織を拒否したのだ。今の沙織は、嫌だと。
「沙織さん、聞いてください」
「やだ!」
「沙織さん」
「一度捨てたくせに、やだ!」
聞きたくないと、沙織は言う。そして拒否されても構うものかと、再度純に抱き着いた。さながらそれはタコの様に、手のひらや足を純の体に絡めて吸い付いたように離れない。純の胸が濡れていく。
「なんでさ、なんで……なんで帰ってきた!」
二人で、私をバカにでもしに来たのか! 純の胸に顔を埋めながら、適当にそばにあった枕を茜に投げつける。茜はそれをよけずに受け止め、じっと二人を見る。そして爆弾を投下する。
「私、純さんと裸の付き合いをしました。大人ならこの意味、分かりますよね」
沙織の体が石化する。
「ああそれと知ってますか? 純さんって意外とスケベなんですよ。舌を絡ませるのが上手で」
「ああ、体をふくのが上手ですね」
「……そのくらい、私だってしたもん」
沙織の反論は、少しの雑音で消え入りそうな小さな声だった。
「私の場合、全て彼が自発的にしてくれましたが?」
あまりにもわかりやすい挑発だったが、沙織には十分効果的だった。いつもの様に攻撃的に沙織はなると、茜は踏んでいた。けれど違った。全てが終わったと言う様に、沙織の全身から力が抜ける。
自発的な口づけをしてもらった経験はもちろんあった。けれど問題はそこではない。
「裸の、付き合い?」
確認するように震えた声で沙織は問いかける。
「本当なの、ダーリン……」
純は顔を反らす。上目づかいで問いかける沙織の顔を、純は直視できなかった。ぎゅっと沙織は純のシャツを掴む。けれどすぐに力なくその指がシャツから離れた。それを皮切りに、沙織は純から離れた。
茜の言葉に偽りがないことを、悟ってしまったのだ。沙織の脳裏に彼らが出ていった時の情景がフラッシュバックする。
「おめでとう」
本心から出た言葉ではないことが明白だった。泣きながら放たれた言葉に我先に動揺を見せたのは、茜である。沙織には茜の言葉が耳に入っていない。右から左へ、川上から川下へ水が流れる様に、彼女の言葉は沙織の心にとどまることは無い。
「そっかぁ、茜ちゃんもダーリンも若いもんね、お似合いだよ」
結婚式には呼んでね、とフラフラとおぼつかない足取りで寝室を出る彼女の腕を、茜はつかんだ。それに対して沙織はゆっくりと茜の方を向いて笑う。笑ったのだ。口元だけ、明らかにそれは無理をした作り笑いだった。
「結婚祝いってわけじゃないけど、それならこの家使いなよ」
おばさんには広すぎるから。乾いた笑いで二人の門出を祝う沙織に、覇気は無かった。動揺の波が茜にも伝播する。思わず彼女は沙織の手を離してしまった。あまりにも力ないその姿に、茜は動揺を隠せなかった。先ほどの言葉を訂正しようにも、同訂正してよいのか茜にはわからなかった。
ただそのあまりにも哀れで今にも泡となって消えそうな様子の沙織を引き止めたのは、王子様、被害者、夫ともいうべき男だ。力強く行かせないとはっきり告げる様に、沙織の背後から沙織の腰を抱き寄せ、離さない。
「やめて、やめてよ……」
それは初めての拒絶だった。婚姻届けを書いてから否定はされても、はっきりとした拒絶は無かった。
「向井君、やめて……」
涙目で呟かれる彼女の言葉に、いっそ言う通りこの手を離してやろうかと純は思った。けれど、そうしてしまうと沙織にはもう二度と会えないような気がしてならなかった。だからこそ純は沙織の命令を棄却する。
嫌です。
「やめて」
嫌です。
「こんなおばさんに、夢を持たせないで」
もう十分だから、と沙織は言う。けれどその言葉が純を縛り付ける鎖となる。
「ごめんね」
別れを告げる沙織の言葉。沙織を掴む純の腕が強くなる。これ以上抱かれると勘違いをしてしまう。訴えるような瞳で、沙織は純の瞳をじっと見た。純にとってそれは吸い寄せられるような、うるんだ綺麗な瞳。美しい宝石を見ているような錯覚に陥った純の顔が、徐々に徐々に惹かれていく。美しいものが嫌いな人はいない。
「三文芝居は程々にしたらどうですか? 同情を引くには、あまりにあからさますぎる」
その言葉に、沙織の体がピクリと反応を見せる。




