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二人が家に戻って驚いたのは、空気が重いことだった。全ての窓はカーテンで覆われ、人の気配を感じさせない。暗い。電気がついていないから、カーテンで室内の明かりが一切漏れていないからということではない。暗いのだ。外から見ても。言うなれば朽ち果てた廃病院のような、ホラーハウスのような、負の怨念が、家から漏れ出していた。
茜が生唾を鳴らし、玄関のノブに手をかける。がちゃり、カギはかかっていない。チェーンも。アイドルの家なのに、不用心すぎる。最悪の結末を茜は予想した。不審者に沙織が襲われ、死んでいたら……背筋が凍るとともに、そんな状況を引き起こした自分に、心から怒りを覚える。
背中に炎のオーラが見える。純は茜の鬼のようなオーラに気おされてしまった。そしてそのオーラに飲まれかけた純も、この状況下において沙織の身に何かがあったのではないかと察する。考えるより先に動いたのは、純だった。格闘技経験も体育程度で浅い純にとって、危機察知能力は低かった。
ドアをちゅうちょなく開け律儀にも靴を脱ぎ、電気もつけずに走り出す。いそうな場所を探す。キッチン、居間、寝室。寝室は日光が一切入っていないことから、純は沙織の名を呼び、探した。
発見は早かった。当たり前だ。沙織はずっと、ここで待っていたのだから。薄暗い寝室で、沙織のくぐもった声が聞こえる。
「あははぁ、幻聴かなぁ」
ダーリンの声が聞こえると膝を抱えながら、沙織が言う。
「沙織さん」
ダーリンが私を呼んでくれる、うれしいなぁと沙織が笑う。膝を抱えながら。俯きながら。
「沙織さんってば!」
肩をゆすられた沙織は、ネズミ捕りの様にスイッチが入ったように純の肩を掴んで狩宿巴投げをした。投げ飛ばされ壁にぶつかった純に対し、沙織は即座に馬乗りになった。
「夢かなぁ夢なのかなぁ」
確かめる様に純の頬を撫でる。鼻をつまむ。純の瞳を確認するように、瞼を親指と一指し指で開く。そして首元に噛みついた。
「夢かどうかわかんないや、あはは、貴方は本物?」
純が肯定する前に、沙織はどうでもいいやと笑った。そして自分の細指と純の指を絡める。
「夢ならなにしてもいいよね」
ねえしってる? と沙織が言う。
「逃げようとした女郎が昔どういう末路をたどったか」
首を横に振り、純が分からないという。
「足を切るんだよ、怖いよね、怖いよね。でも大丈夫、ダーリンはもうこの家から出なくていいからさ、私が見てるの朝も昼も夜も。夢の中でも。ずっとずっとずーっと」
キャハハハと頭の悪い女子の様に笑う。そして純の左手の薬指を、ギュッと強く握りしめる。
「でも大丈夫、さっきの話は嘘。私もそんなにひどいことはしないよ、だってダーリンにそんなことしたら、お外デートが出来ないでしょ?」
でもねと沙織が言う。
「薬指、頂戴。誰にも渡したくない。だってだって、だって」
純の指を折ろうとする。前後左右に動かし、子供がプラモデルのパーツをランナーから千切るように。ついには鈍い音が響く。それと同時に、純の指に痛みがはしる。叫び声と笑い声のカクテルが女を酔わせる。
「ああ、ダーリンの声、ひさびさ」
恍惚の女子は、折れた指を更にこねくり回す。そのたびに純がうめき声をあげる。けれどそれを、沙織は許さない。
「女の匂い、誰? 誰なの?」
純の首を握り、上下にゆする。待たされた女は嫉妬に狂う。自分以外の色の着いた男を、女は許すことは無い。
「それにそのほっぺ……許せるわけないじゃない」
握力が強くなる。うめき声が小さくなる。泣きそうな漏れた声で、尚も妻の名を呼ぶ。
「馬鹿な真似はそこまでです」
部屋のライトが付いた、まぶしさに一瞬沙織の手から力が緩む。その隙に茜は沙織の襟を掴み、勢いよく純から引きはがす。
「きゃんっ」
かわいらしい声を出しながら床に尻もちをついた沙織に対し。茜が心底軽蔑した様子で言葉を投げる。
「随分みすぼらしくなりましたね、沙織さん」
「茜、ちゃん?」
「ええ、貴女のマネージャーの沖茜です」
純と茜を交互に見てから、沙織は悟ったように笑う。
「そっかぁ、そういうことかぁ」
立ち上がった沙織は大きな胸が、茜の体に触れるほどに近い距離で向かい合った。一瞬即発、先に手を出したのは茜だった。ためらいなく沙織の頬を平手打ちする。
「危機管理能力が無さすぎます、不用心すぎです」
正論を述べる茜に対し、沙織は黙っている。
「それに純さんをケガさせるなんて、どういう了見ですか」
「純さん、ねえ。随分仲良さそうじゃん」
「聞いてますか? 沙織さん」
「人の気も知らないで、私とダーリンの寝室に入ってくるなぁ!」
沙織のリミッターは既にれているのかもしれない。茜に平手打ちをお返し。その鋭い一撃は、茜のメガネを弾いた。そして再度反対の頬を平手打ち、茜の口内から血が流れた。きっと睨むような視線に、沙織は気に入らないと茜の脚を踏みつける。
「でてけぇ!」




