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「ヤーン、この子怖い」
何が起こった……まず分かったのは、背中が痛いことだ。
何やら先ほどの女が耳障りな声で言っている。
「怖いのはためらいなく人間一人をぶん投げるあんただよ、相変わらず禁句らしいねえ」
天井を見上げながら私は、二人の会話を聞いていた。どうやら私は油断したようだ。ブリッジを作り即座に起き上った。そんな自分の動作を見た女性は目を大きくして拍手を送る。どこまで下に見れば気が済むんだろう、このババアは。
もはや試合開始の掛け声は必要なかった。
私は彼女に対し今まで覚えた技をすべてお見舞いした。そしてすべて、いなされた。懐に入ればまるで素人の様な様でありながら、ラッキーヒットで彼女の掌底で私は顎を撃ち抜かれ、組み技をしかければ脇固めや腕ひしぎ十字固めで返される。
そして蹴りを放とうとすれば、その前にローキックや足払いで足元を崩される。
その都度彼女の豊満なバストがあてられる。痛み、柔らかさ、そして痛み。自分の方が背丈もあるし筋肉もある、それなのにどうしてこんなにコテンパンにやられるのか。
私は最後に大技をしかけることにした。両腕で彼女を逆さに抱きしめてクレーン車の様に高く持ち上げる。そして一気に畳へ叩きつける。そういう算段だった。慌てふためく彼女の声を聴き、気分よく口角を吊り上げる。これでもくらえ。
一発逆転を狙っている時点で、勝敗は既に喫していた。
彼女は私の望み通り、畳へダイブした。勝った! パワーボムに成功したことで私は浮かれていた。喜び拳に力を入れる私だったが、それはすぐに解かれた。
「いったぁーい、女の子にかける技じゃないぞ」
おどけた口調で、頭や腰を抑えながら彼女は言う。
「受け身で手のひらも痛いし。最悪だよー」
ふえーんと泣きまねを見せる女性に対し、私はわなわなと怒りに震える。そして最後は彼女に対し再度パワーボムを仕掛ける。今度は手加減なしだ。ケガしたってもう知らない。
「天使の様に細心に」
「え?」
いつの間にか視線の先に彼女はいなかった。そして背後から腕を回される。
「な、なにを……」
この小さな体のどこにそんな力があるのか、振りほどこうとしても、その腕は離れなかった。
「悪魔の様に大胆に」
体が浮いた、いや、違う。足元が地を離れ、私は再度空を見る。そしてその後、世界が逆さになった。衝撃と共に、意識が遠のいていく。そしてはっきりと脳に刻まれる。私の負けだ。
あとにして師範代に決まり手を聞けば、それはそれは美しいアーチを描きながら、そしてそれはまるで雨後の虹の架け橋のように、綺麗だったという。あの時私は負けたのに、薄れゆく意識の中、視界が明るくなっていくような気がした。
目が覚めた時にまず初めに見たものは、忌々しくも自分を負かした女だった。あどけない表情で目覚めたばかりの私をじっと見る女
「あ、生きてた」
相変わらずのアニメ声だなと心で笑った私は、額にあてられた濡れタオルを手でとりながら起き上がる。笑いながら心配したよと言う彼女に対し、負けた恥ずかしさか私はぷいと視線をそらした。それがまた子供っぽかったからか、彼女は余計私に興味を持った。
「あはは、可愛い」
頬に少し冷たいものがあてられる。ちべたい。よく冷えたペットボトル、スポーツ飲料だ。私はそれを寝ながら受け取ると、右腕をつっかえにして起き上がった。ずきりと頭が痛む。彼女からもらったペットボトルのキャップを開けて、一口飲んだ。甘い、程よい甘みが心にしみる。
「あ、あんまり見ないでください」
じっと見られるのがこんなにも恥ずかしいと、今知った。
「貴女、何者ですか?」
「私、これでも結構鍛えていたつもりだったんですけど」
「それに、最後の技って」
矢継ぎ早に出る質問に対し、師範代が口をはさんだ。
「これこれ、そんな質問攻めしないの。さおちゃん困るでしょ?」
「さおちゃん? さおちゃんさんは」
私の言葉に、さおちゃんさんが笑った。
「アハハ、さおちゃんさんって、ああごめんごめん。むすっとしてかわいいなあ、もう」
頬を指で突かれ、私はなお恥ずかしくなった。恥ずかしさを隠すために、つい強めの怒り気味の口調で彼女に悪態をつこうとしていた。
「沙織」
「私の名前は淡路、沙織」
よろしくね、と私を負かした女性が名乗りを上げて握手を求めてきた。その微笑みが自然で、まるで先ほどまで私と戦っていた人物とは思えないほど柔らかい物腰だった、だからか私は握手に応じて、名乗り返す。
「沖、茜です」
「あかねちゃん!」
わっ、急に抱き付いてきた淡路さんに、私はさらに驚いた。馴れ馴れしいというより、懐に完全に入られた気分だった。
「私たち仲良くなれそうだね」
何を根拠にこの女は言うのだろう、私は口に出かけた言葉を飲み込んだ。だってにこにことじっとこちらを見つめる大きく丸い瞳に圧倒されたから。天使のような笑顔で、なんて威圧感だろう。そして私は小さく「はい」とだけ返事をした。今にして思えば、友達もおらず一人で稽古をしていた自分に対し師範代が明るい沙織を呼んだのだとわかる。




