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 場面は変わって純たちは居間にいた。純は茜が何故か持っていた男物のジーパンとシャツを着て、茜も似たような格好で椅子に座っていた。

「どうぞ」

 コトリとテーブルとマグカップの底が音を鳴らす。心地よい湯気と、マグカップ越しから伝わる温もり。椅子に座りながら茜は純が作ったコーヒーを黙って飲む。時折キッとにらみつけるような鋭い視線を純にぶつけながら。茜は気に入らなかった、受け入れがたかった。

 自身の心の制御が効かないことに、しかも寄りにもよってこの男の前でだけブレーキが利かなくなる。睨みつけても嫌がらない、おびえない。それどころか妙に優しい視線で2こっちを見るこの優男……気に入らない。

「今日のことは忘れてください」

「わかりました」

 そんなにすぐに忘れられるか、と言うより忘れるな。にこりと笑う純に対し茜は8割のわがままと2割の寂しさをつま先に込めて、座りながら、ただ不愛想な表情をつくりんながらそれを純の脛に放った。がたっと音を立てて純が足の痛みに苦しむ様子が分かる。不意を突いた形だからか、それとも苛立ちからか、そのキックは思いのほか綺麗に入ったのだろう。

 あまりにも純の悶絶した表情が面白くて、まるでサーカスでおどけるピエロを見ているようだと茜はくすくすと笑っている。そんな茜を純は鬼かと文句を垂れるそれがまた茜にとって今度は熱湯風呂やドッキリで驚いた様子を見せるリアクション芸人の様でまた茜は笑った。

 けれどどうしても、心から笑うことは出来なかった。なぜだろう、茜は目じりに浮かべた涙を指ですくいながら、少し考える。

 ――面白くないから? いいえ、面白かった。

 ――この人がやったことだから? そんなはずはない。彼といると心が安らぐ。

 この感じ、どこかで……。

 靄が少し腫れた気がする。いや、気のせいだろうか。茜は立ち上がり、お手洗いにとトイレに向かう。一人で少し考えたかったからだ。洋式、温度調整機能付きの便座に腰かけながら茜は自身の心と問答を始めた。

茜の心の中で道しるべを失って泣いている子供がいる、霧に包まれた裡の世界。歩いても歩いても霧ばかり、歩きにくい砂利や凸凹の獣道。あたりからは笑い声は聞こえていても、自分がその声の主を呼んでも返事は無い。

「だれかいるの?」

 泣きながら呼ぶ。

「ここはどこ?」

 迷子になった子供は不安に誰かを呼ぶ。

「だれか」

 ここから出して。

 聞こえてくるのは楽しそうな声ばかり。けれどその声の主は自分のことをいないものの様に扱う。どうして、どうして助けてくれないの。少女はついに問いかけるのをやめて膝を抱えてうずくまる。視線の先は真っ暗。

 歩いても歩いても同じ場所に戻される世界、寂しい世界、悲しい世界。

 けれど茜はその世界に少し懐かしさを感じていた。ああ、昔はこんな感じだったなあと。いつも一人で泣いていたなぁと。しみじみと昔を懐かしむ。でもいつからか、泣かなくなった。仮面をつけたように自身の顔は無表情を作るようになっていた。弱みを見せたくないから? 馬鹿にされたくないから? 違う、寂しい人と思われたくなかったからだ。

 だからこそ体を鍛え、自己の鍛錬に励んだ。自分の身は自分で守る。それが強い人間だということを証明するために。そしてそうすることで一人でいる時間が減ったような気がしたからだ。

 齢60を超えてたであろう高齢の師範代は厳しいけれど理にかなった人だった。そして稽古が終わればとても優しく、良くも悪くも水があった。お茶と羊羹をこよなく愛していた人だった。稽古後のその一時、最初は嫌だったが気が付けば家より居心地が良かった道場。気が付けば無意識に、実の祖母と接するように私は師範代になついていた。けれどその反面、靄が深くなった気がした。身体的に強くなっても、靄がまとわりつく気持ち悪さは拭えなかった。尚も茜は修行に打ち込んだ。そして出会った、太陽に。

「およよ、可愛い子がいるぞ」

 独特のアニメ声で自身を呼ぶ女性は、師範代と親しげに話し始めた。それがどうしてか、私には気に入らなかった。きっと今にして思えば、嫉妬だったのだろう。師範代と仲良くしゃべっている女性に対し、私は嫉妬したのだ。

 子供らしく、親しかった人を取られた感覚に陥った私は、敵意に満ちた表情、嫌味っぽく師範代をせかした。しかし今になって思えば、その時点で私の行動原理は幼稚だった。

「師範代、早く稽古を始めてくれませんか?」

 高校生になったばかりの自分はぶっきらぼうに師範代をせかした。そんな女としゃべるよりも早く自分を見てくれと。ぼさぼさに伸ばした髪を後ろで結っていた当時の自分は、まるで時代劇に出てくる食い詰めた武士の様だった。

 常に何かに餓えた狼のような、青白い不気味な雰囲気を醸し出していたのだろう。自身の焦りにも似た様子を見た小さな来客はくすりと笑った。それが私にとって、腹が立った。なんだその眼は……笑うな。

何かが切れた。

気が付けば私は師範代ではなくその来客の方へ視線を向けていた。何か文句でもあるのか? クソガキ。そんな生意気な目をしていたんだ。その相手が自分より年上だということを知らずに。

だからこそ彼女の一言一言にいら立ちを覚える。ガキのくせに生意気だ、師範代と私の時間を奪うな。

「さっさと帰れ。このクソガキ。」

 気が付けば口に出ていた。けれど相手はむしろ、子ども扱いされて嬉しそうだった。そしてそれを肴に、嬉しそうに師範代と話している。そして師範代は、私に賛同してくれなかった。

「こらこら、この人は茜ちゃんより年上だよ、こう見えてもね」

 こう見えてもは余計ですよと頬を膨らませて怒る姿の女性、その姿がどうも嫌だった。そして今度はその女性が、猫の様に正座して座っている師範代とじゃれ始める。そして膝枕をしてもらっていた。師範代も家猫を撫でる様に、その女の頭を優しくなでている。稽古後に今日の動きはよかった、型が上手く出来たとほめてくれる時のような、優しい手で。

「そうですか、なら帰れ、ババア」

 気が付けば私は女ではなく天井を見ていた。


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