42 港は一つじゃない。
一方そのころ純は、アパートにいた。鉄筋コンクリート造りの防音対策がしっかりされた3LDKの広めのアパート。二人は恋人の様に密着しながら、情事に励んでいた。
「だめだめですね、純さん。もう少し優しく」
「こ、こうですか?」
「そう、優しくだけじゃなく、そう、時に強く」
「揉み方が雑です、ほら、もっと手をしっかり使って。小手先だけでごまかさないで。手が汚れてしまうのが嫌ですか? 吸い付いてくる肉を離さないで、ほら、もっと」
「音が聞こえますか? 空気が漏れる音、ぐちゅぐちゅ」
「優しくはここまででいいでしょう、ほら、強く、強く打ち付ける様に」
女性の指示通り、男は数度快活な破裂音を響かせる。そのたびに女がほめる。筋がいいと、男の手に触れて褒める。
「って、近いですよ、さっきから」
「いやですか?」
「いやじゃないですけど……」
人を待たせてる手前、と言いかけたところで女性が言葉を遮り発言する。
「純さん、ハンバーグは最初の仕込みが命です。しっかり覚えてください」
「にしては教え方が変だったような」
小判型に成型できたハンバーグをステンレスバッドに置きながらも、茜の言葉に首をかしげる純に、「気のせいです」と茜が答える。ここは茜のアパート、沙織の家から徒歩10分程度の場所にある7階建てのアパートだ。
「シチュー教えてくれるっていうから来たのに……」
「シチューだけでは物足りないのでは?」
「そりゃそうですけど、俺が言いたいのは」
あの時食べたシチューが妙に甘すぎて美味しくなかった事だ。だから純ははっきりと「嫌い」と言い、「俺が作るから待っててくれ」と家を出たのだ。なのになぜ1日以上沙織を放置しているのか。
純のチキンハートが痛む。沙織が心配なのもそうだが、自分の身も心配だ。修羅となり阿修羅すら超えた、泣き顔阿修羅の腕や顔を千切っては投げる鬼嫁の姿を想像する。
「にしては純さんの腕は少々お粗末です。一般男性の平均程度、可もなく不可もない」
「独り暮らしではそれで十分だったんですよ」
「いくら料理下手な沙織さん相手とはいえ、適当な料理は許しませんからね。変なものは食べさせられませんから」
しっかり仕込むから覚悟しておけと茜は言う。純はそれに対し望むところだと積極的に教えを乞う。
「わかってますよ、センセー。次は何をすればいいですか?」
反論しつつも素直に教えを仰ごうとする純の姿に茜は微笑ましそうに笑った。それを見て面白くなさそうに純は唇を尖らせる。茜はそれを見て笑いながら笑った理由を説明する。
「失礼、子供の様に可愛くて」
「悪かったっすね、子供で」
「そういう意味で言ったのでは、……でも私と純さんとの間にもし子供がいたら、きっと愛する人を待ちながら……楽しいでしょうね」
じっと純を見る瞳は愁いを帯びており、それが叶わない夢であると知っている様だった。その儚さは、純を引き付けるには十分だった。弱みを見せられるとさらに弱くなる純にとって、効果てきめんだった。完璧そうな女性が二人の時にだけ見せる弱さ、素顔、強さの中の弱さ。
「早く料理を覚えて、沙織さんの所へ戻ってください」
茜のセリフが少々自暴自棄に感じてしまった純は、お湯と洗剤で手を洗ってタオルで手を拭いてから茜の頭を撫でた。その瞬間、茜の頭にびっくりマークとはてなマークが出たような気がする。
「戻るときは茜さんも一緒でしょ、ね?」
甘える経験がないと言っても過言ではない茜にとって、純の行動に対する正解が導けなかった。
「な、な、あ……」
「俺もまだ女一人養えない子供だから、働いてる茜さんにこんなこと言うのもあれですけど」
「あ、あれ!?」
一瞬で顔を爆発させたように真っ赤にさせる。
「あ、あれってなんですか! あれって!」
茜はぽかぽかと純の胸を両手で叩く。けれどその力は依然千夏に放ったような一撃とは程遠い、弱弱しいモノだった。まるでおもちゃを買ってほしいとねだる子供の様に、買ってくれなくて駄々をこねる子供の様に、弱い力だった。
「あー、茜さんもしかしてエッチなこと考えてます?」
「なっ!」
図星をつかれた茜は思わず純の胸を両手で押した。その力は先ほどの力とは違い、勢いがあった。思い切り押されたことで純はキッチンのテーブルに背中を打ち、その場に座るように崩れる。その衝撃で先ほど小判型にしたばかりのハンバーグの入っていたステンレスバットが宙に浮き、くるりと反転して落ちてくる。落下先は純の頭頂部。ドミノ倒しの様に綺麗な流れでそれは純の頭に見事に落ちた。金属トレイが
「あっ……」
茜が謝ろうとしたときには、純の体に生ハンバーグが降っていた。ハンバーグが純とステンレスバットを繋ぐ糊となり、頭にバットを被った間抜けな姿が出来上がる。
「いっつ、何するんすかもー」
腰を抑えつつ髪がべとべとになったと純がぶつぶつ文句を言う。けれど茜はそんな純を見て一瞬黙ったかと思いきや、大きく笑った。笑い袋の様に、お腹を押さえて大きく笑った。
「あはは、はははは、あははは」
まるでピエロの様だと茜は純を笑った。いくら純が文句を言っても、ハンバーグまみれ、しかも頭にバットを載せていてはそれはただのギャグでしかない。彼女は笑った、大いに笑った。しかしながら笑いというのは連鎖するもので、純も自身の頭にあるバットを触り、笑い出した。
共鳴する笑いが、二人の世界を包み込む。




