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その一言が沙織の口から出なかった。
出そうと思うたびに、得体のしれない恐怖に襲われる。あざ笑うような声が聞こえる。全身金縛りにあったように苦しい。一瞬の間が、永久に感じる。けれどその永久の時間は、悪夢の様だった。言いたいのに言えない、言いたいのに声に出ない。そうこうしているうちに彼がいなくなる。悪魔が沙織の口を覆う。代わりに「好きにすれば」「じゃあご自由に」と好き勝手な言葉を並べる。そんな悪魔を彼女は何とか振り払い、現実へと、彼を引き止めなければと、勇気を絞り出す。
「行かないで!」
やっと声が出たと思った時には、ダーリンは、彼は、純はもういなかった。9割以上残されたシチューだけを残して。沙織はその残ったシチューに、純が使っていたスプーンを使って口をつける。がくんと膝から沙織は崩れ落ちてしまった。
「あははは、あははは」
面白くないのに、笑ってしまう。人ってこんな時にも笑えるのかと、自虐的に更に笑う。けれどその笑い声に、陽気さは無くあるのは陰鬱とした乾いた笑い。
「何がいけなかったんだろうなぁ……」
一口、一口、さらにもう一口とスプーンで口に運んでいく。茜ちゃんには負けるけど、そんなに美味しくないわけじゃ……でもあれかな、あれだね、うん。
「……しょっぱい」
泣きながら食べるシチュ―の味は、酸味も甘みもなく、ただしょっぱくて痛かった。
嫌がられても嫌がられても、心の中では惹かれあっていたと信じていた沙織だったが、その心の支えが一気に折れた。逃げ出しても出会えた、最初は自分からばかりだったチューも、純からしてくれるようにもなった。なのに……、沙織はふらふらとベッドに向かうと、膝を抱えてうずくまった。
「涙で味なんてわかるわけないじゃん……ばか」
その背中をさすってくれる人、優しく抱きしめてくれる人、優しい言葉をかけてくれる人、厳しい言葉をかけてくれる人はもうこの家にはいなかった。彼と暮らすはずだったこの部屋、家が、やけに広く感じてしまう。彼を捕らえるための鳥かごに、彼は既にいない。自由を求めて空へと旅立った。
そして脳裏にチラリと映った自分を支えてくれていたメガネの似合う彼女も、ここから出ていった。もう戻ってこないかもしれない、もしかしたら彼と一緒にここからいなくなったのかもしれない。
年寄りを置いて、使えない婆を山に捨て置くように。そうか、ここは彼の檻じゃなかったんだ。沙織は笑う。彼を捕らえるんじゃなく、私を閉じ込めるための……、面倒な山姥を捨てるための家。
「こんなおばさん、いやだよね……こんな面倒な」
ネガティブワードが零れ落ちる
「茜ちゃん、ダーリン……独りはやだ」
湧いて出てもそれをすくってくれる人はいない。もしかしたらこれは夢で、起きたら二人が自分を待っていてくれているのではないかと考える沙織であったが、あのような別れ方をした以上、それは期待薄だった。
「帰ってきてよぉ」
その問いかけは誰にも聞こえない。
――やだ、やだ、やだ……。
スマホで二人に連絡する術を持っていても、実行する勇気がない。もし拒絶されたら、今度こそ自分は独りになってしまう。怖い、怖い。夜が明けるのが怖い。あさなんて来なければ、早く、早く戻ってきて。遮光性に優れたカーテンに守られたこの寝室で、彼女は真っ暗な中で一人待つ。
闇にとらわれたように、ただただ二人の名前をつぶやきながら。
時折彼らの声がすると顔を見上げても、誰もいない。帰ってきたと思えばそれは夢。時計を見るのが怖い、スマホで日付を確認するのが怖い。置いて行かれた事が明確にわかってしまうから。捨てられたという事実を認めたくないから、独りは嫌だから。きっと帰ってくる、帰ってくる、帰ってくる。心で念じながら、彼女はじっと待った。
けれど一晩経っても二人は帰ってこなかった。
その日沙織は仕事を休んだ。新曲の打ち合わせの仕事を。相手方に伝える理由は体調不良。それは嘘だ。沙織は二人が帰ってくるのを待つために、家で待った。足音が聞こえるたびに外に出る。その日、12時のベルが鳴ることには沙織の目は赤く、クマが出来ていた。
冷蔵庫には昨日作ったシチューがタッパーに二人分、入れられていた。
けれど沙織はメイクだけは欠かさなかった。ダーリンにはいつもきれいな自分を見て欲しいから。
「魔法が解けたサンドリヨン……ねえ、もう魔法使いも王子様も現れないの?」
王子も魔法使いもいなくなったサンドリヨンを、守ってくれる者はいない。
「魔法使いに王子様を取られちゃった私は、いったいどうすればいいのかな……」
純が使っていた毛布を抱きしめながら、沙織は今日誰ともしゃべらなかった。ただ一人、毛布に向かって言葉を投げる。返してくれる人はいない。




