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「沙織さんスプーンがないんですが」
「ないなら食べさせてあげようか? ほら、あーん」
沙織は自分用に用意したスプーンで空をすくい、シチューを食べさせる仕草を見せた。
「だ、大丈夫です」
頬を染めて否定する純と、それを見てまだまだ初心だなあと沙織が笑う。
――もう幾度も唇を重ねてるのに、それは恥ずかしいんだね、ダーリン。
純を愛らしく思いながら沙織は自分用にシチューを注ぐことは無く、ずっと純を見た。テーブルに両手で頬杖をついて、純のしぐさを見る。視線に気づき顔を長い前髪で隠すように、頭を下げてシチューを食べる姿、可愛い。
「ダーリンの恥ずかしがりや」
思わず口に出てしまった言葉に、純がせき込んだ。
「美味しい?」
沙織は気にせず料理の味を聞いた。
「お、美味しいですよ。トマトの酸味、結構きいてるし。丸ごと入れたんですか?」
「そうなの! トマトを手でつぶして、シチューに入れてみたんだ」
先ほどの赤い手の正体を、純はやっと知ることになった。
「トマトだったんですね……」
「ダーリン、すごい怖がってたよね。すぐ気がつくと思ったんだけどなあ」
恐怖でトマトなんて発想出ませんよ、とは言えない純であった。
「後は、カレー粉ですか? ルー?」
「一応カレールーもあったから混ぜてみたの、ちょっとだけ。後はミルクをたっぷり、さっきのトマトを隠し味ってとこかな」
「……いろいろアレンジしてたんすね、沙織さん」
「そうだよ、ダーリンのためを思っていろいろ」
「アイドルの手料理なんて、俺初めてですよ」
「初体験、もらっちゃった」
「変な言い方しないでください」
「今度は私を食べてみる? きゃっ♪」
恥ずかしそうに胸元を強調するように自身の体を沙織は抱きしめる。たゆんと祇園が出そうなほどに、沙織のバストは大きく揺れる。純は恥ずかしそうに視線をそらした。
「か、からかわないでください」
「やーん」
いやよいやよと、沙織は体を左右にくねらせる。純は溜息をついて、箸をとった。
「ねえねえ、さっきからいろいろ話してくれてるけどさ」
「なんですか?」
キャベツをかじりながら、純が聞き返す。
「シチューあんまり減ってないよね?」
「え?」
じっと純を見つめる瞳は、嘘を見抜く魔眼の様だった。じっと、純が視線をそらしてもその瞳が純から外れることは無い。サーチライトに照らされた虜囚の様に純は沙織に対し言い様のない逃走本能にかられてしまう。
「美味しくない?」
「え、いや」
「美味しくないんだ……」
彼女の声のトーンに見る見るうちに暗雲がかかる。雷が落ちる一歩手前。
「そんなこと」
「はっきり言ってよ!」
沙織は金切り声で叫ぶと、テーブルを強くたたいた。テーブルが揺れるとともに、純のカレー皿からシチューが少し零れてランチョンマットにシミを作る。
「沙織さん」
「茜ちゃんの料理には美味しいって言ってたくせに!」
ヒステリックに叫ぶと沙織は悔しそうに爪を噛んだ。
「だ、だってそれは……」
「何? なんなの? ダーリンはそんなに茜ちゃんがいいの? 私が嫌いなの?」
「私だってダーリンの喜ぶ味くらい作れるもん! ダーリンだって好きでしょ? 私の事好きだよね? だったら食べてよ」
言うだけ言うと沙織は泣き出してしまった。
「沙織さん……」
すぅっと息を吸ってから、諭すように純が口を開く。沙織は聞く耳は持っても、純の方をきつく睨んでいる。
「俺、嫌いです」
はっきりと告げられた言葉。
準備も無しに告げられた言葉。
思わず沙織の涙が引っ込んでしまった。
「え?」
「失礼します」
席を立ちあがった純を追いかける気力を、沙織は持っていなかった。いや、正確に言えば持っていただろう。けれどその力を発揮することは出来なかった。沙織は初めて知った。はっきりと拒否されるのが、これほどまでに心に来るということを。
手を伸ばす、立ち上がる。背後から「いかないで」と抱き付きせがむ。どれも選びたい、頭より先に感情で動けるはずなのに、体が動かない。彼がショルダーバッグをもって出てってしまう。彼が去り際に何かを言っている。でも聞こえない、ワカラナイ。
耳が取れてしまったのだろうか、目が腐り落ちてしまったのだろうか、わからない。なんで、どうして、彼が出て行ったの? 私は……私は……、カレニステラレタノ? 純が家を出ていった音、玄関の石畳を靴のつま先が叩く音がする。
――いかないで。




