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04

 沙織は知っている。

純がどう思っているかを。なぜ純がこれほどまでに大きな反応を見せ、嬉しそうに体を跳ねさせた事を。幾たびも男を相手にしてきた彼女にとって、この程度の反応、読むのは造作もないことである。

「愛、愛……アイドルの沙織との触れ合い……芸能人に免疫のないダーリンなら驚いて当然、でも大丈夫、沙織、あなたの前ではアイドルを捨てて、一人の女、良き妻になるから、きゃはっ、恥ずかしい、顔真っ赤になっちゃう、顔赤いよね、恥ずかしいなあ、あ、手汗が出てきちゃった……でもでも、ダーリンの前だもん、仕方ないよね、沙織こんなの初めて……。ねえダーリン…………」

 なおも続く沙織の口上。呼びかけ。

「どうしてこっちを見てくれないの?」

 恥ずかしがり屋のダーリン。でもそれも受け入れてあげる。沙織は優しいから。

 そう心でつぶやきながら、うつむいて目を合わせないダーリン、向坂純の顔を下から覗きこんだ。

 きっと嬉しそうな顔をしているはず。沙織は確信している。だからこそ、純の顔を見たときに思った。

「あは、ダーリン泣くほど嬉しい? 沙織もダーリンの温もりを感じられて、幸せだよ」

 純の表情を確認したら安心したのか沙織は、体を小さく震わせている純の体を見て心配そうに問いかける。「寒そう」と。

 そう言って沙織は掴んでいた手を放すと純の背中の方へと回った。

「沙織があっためてあげる。だって沙織、お姉さんだから」

 沙織はぎゅっと優しく包み込むように抱きしめると、そのまましばらく無言の抱擁を始めた。対する純はといえば、背中で感じるマシュマロのような優しい感触。心が蕩けそうなミルキーボイス。恐怖、幸福を交互に繰り返されることで、純のこの環境を更に理解できずにいた。

 ――これは現実なのか、それとも幻想なのか。

 純の心境はあこがれの女性との接触とその女性から発せられる悪魔のささやき、押し寄せる現実という名のビックウェーブで正に飴と鞭の繰り返しである。

「ふふふ、はぁ、はぁ」

 純の耳裏に生ぬるい吐息がかかる。

 そよ風のような心地よさ。加えて彼女は純の頭を、顎を、指先で筆のようになぞっている。

 これだけならば、夢心地で彼女の胸の中で眠れるであろう。


 これだけならば。

 「かわいいダーリン、私だけのダーリン、好きよ、ダーリン……ねえ、ダーリン、あなたも沙織が好きなんだよね、好きだよね、好きなんだよ。わかるかな? わかるよ、わからなくてもこれから一種に。でもすぐに家族は増えるよね、ダーリンはいつほしい? 私はね」

 ぼそぼそと周囲には聞こえないほど小さな声で呟く。

「こ、怖い」

 彼女の呪術に似た言葉を聞いた純が吐き出した一言は、たった三文字。これだけである。

 空気が変わる。ほんのり桃色の雰囲気が一転した気がする。

 マネージャーである茜はただ一言も発さず、ちらりと純を見る。ぼそりとつぶやき俯いた純を見た彼女は、その心中でご愁傷さまです。と部屋を離れた。そして部屋を出る際にはだけ呟き数秒立ち止まり、黙とうを捧げたという。

「さて、キッチンの整理でもしましょうか」

 誰に言うでもなく彼女は次の行動を確認するようにつぶやくと、扉越しに小さな悲鳴が聞こえてゆっくりと振り向いた。けれど空耳でしょうと特に気にする様子のないまま、キッチンへ向かい、冷蔵庫の中身を確認する。

「はぁ、お酒とビタミン剤と……化粧水、何もないですね」

 冷蔵庫の中に茶菓子や飲み物がないのを確認した茜は、買い物に出ると沙織にメールをした。

「2時間ほどで十分でしょう、きっと」

 2時間という時間の根拠はない。

 

2時間後茜が家に戻ると、首筋に複数の痣ができた純の姿が見えたという。

「ほどほどにしてくださいね、沙織さん」

 つやつやとした沙織の肌を見た茜は何かを察するように沙織にペットボトルのふたを緩めた炭酸水を手渡した。沙織はそれを嬉しそうに受け取ると、嬉しそうにこくこくと喉を鳴らして飲んでいく。半面気絶したように沙織の膝の上で眠っている純はといえば、どことなく嬉しそうな表情をしていると茜は思った。


「やはり男の子ですね、嬉しそうです」

「だよね、ダーリンってば……きゃっ」

両手でほっぺたを抑えると恥じらいのポーズをとる沙織。それはまるで写真集に収めたいと思うほどに、完璧な計算されたポージングだ。

「きれいな寝顔ですね」

「そうなの! 髪もさらさらだし、かわいいなあ」

 髪を指ですくい、ほっぺを指でつんつんと突く沙織。それを見てどこかうずうずしてしまう茜を、沙織は見逃さなかった。

「ふふっ」

 嬉しそうに、少しの優越感を添えて茜を見る。そんな挑発的な彼女の行動に、茜は動じずに夕飯前までに純の荷物を整理するようお願いする。沙織はそのお願いに手を振りイエスと答える。

「それと仮にもアイドル、外での言動にはくれぐれも注意してください」

 ばたんと扉を閉め、彼女はキッチンへ向かう。

 今後の心労が増えるなあと自分の境遇を嘆きつつ、ストレス対策のビタミンサプリを数錠を帰り際に買ったお茶と一緒に飲み干した。そして自身の手掛けるアイドルと、新たに迎え入れられたその夫(仮)のために今日も料理を振るうため包丁を握る。

「……男の人ってどのくらい食べるのでしょうか?」

 茜は大量のキャベツを千切りしながら、まあいいかとまな板と包丁で均一なハーモニーを響かせながら、夕餉の準備を始めた。


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