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「あの、沙織さん」
「んー、なーに?」
「俺やっぱり」
「湿っぽい話は無し、美味しいもの食べに行こうよ、ね?」
「美味しいもの?」
「ついてからのお楽しみ」
沙織は茜の車を発見し、純と一笑に車の方へ向かう。座る場所は定位置。後部座席に二人で。純を先に乗せた彼女は車に乗り込む前に、ちらりと千夏の方を見た。
「千夏ちゃん」
「なんですか?」
「千夏ちゃんにダーリンは早いよ、というか諦めて」
冷めた表情で沙織は言う。それは世間に笑顔を振りまくアイドルがして良い表情ではない、女の顔。千夏を完全に敵視した冷めた表情。中高はもちろん、大学でもそれと似た視線を注がれた経験がある千夏は思う。声のトーンから純も沙織が怒っているのが分かった。というより、女子ならだれでも気が付くほどの敵意をこのアイドルは放っているのだ。
「わかった?」
その威圧的な問いかけを千夏は適当に流すつもりだった。だって自分はあくまで彼を商売道具としてしか見ていない、だからそれはお門違いだから。それをニュアンスを和らげて沙織に対して言おうと、千夏は口を開く。
「な、なにを。私は別に彼を」
けれど自分の考えとは真逆の対応を、千夏はとってしまった。顔を反らし、図星をつかれたように反論してしまった。その姿がもう沙織にとって確定だった。だからこそ言う。何度も。
「貴女は無理。迷惑」
「私たちに構わないで」
「夫婦の問題に首を突っ込まないで、ダーリンを、純君にちょっかいかけるな」
「ダーリンを商売道具になんか使わせない、もし貴女がまだダーリンを下らない理由で付け狙うならその時は……」
気圧される。アイドルの言葉一つ一つに、まるで断崖絶壁に追いつめられた千夏の足がすくんで動けなくなる。沙織は指で拳銃を作り、千夏の方へ銃口を向ける。
「許さないから」
千夏の眉間に一発。
乾いた声で「ばーん」と撃ち抜く様を見せると、沙織は「快感」と笑った。そして千夏に興味がなくなったように車に乗り込んでいく。千夏は最初は茫然と立っていたが、体に熱が戻ると同時に次第に怒りが沸いてきた。
「何様だって―の」
「大体なに? あんたに何が分かるんだっつーの!」
「人のモノが欲しくなるってタイプじゃないけどさ……」
――奪ってやりたい、奪いたい。
あの高慢ちきな女から、あの男を奪ってやりたい。
千夏の脳裏に一瞬だが腕を組んで一緒に歩く自分と純の姿が見える。野暮ったい姿ではない彼。千夏の行きつけの美容室でカットした好みのミディアムヘアーのウルフカット。服装も自分好み。行動も、声も。声も? 思い返してみれば、純の気弱そうな声にいら立ちを覚えたことがないことを千夏は思い出した。同時に純が普段どんな声をしていたか、困った様子ではない普通の姿、声が千夏は気になった。
おもむろに車の方をじっと見る。おそらく幻聴だが、車内から甘い声がうっすらと聞こえる気がする。しかしそれは事実である。千夏が聞いたのが社内の声だったのかは別として、事実車内では沙織が純に甘えていた。
「私のハートを打ちぬけるのはダーリンだけだよ。むしろ撃ち抜いて」
魅力的なバストに純の手のひらを触れさせる。
「ほらわかるでしょ? 私どきどきしてる。でもすごい幸せ」
とくんとくんと胸が鳴る音がする。純は沙織と同様に自分も興奮していることが分かった。沙織が純の手を自身の良く引き締まったお腹にあてる。
「1年後にはここにダーリンとの愛の結晶が芽吹くんだよ」
だからこれからもよろしくねと、沙織は改めて純に甘える。肩にもたれかかり、時には純の顔を見て嬉しそうに笑う。手を握るだけで嬉しそうに笑う。純はそれに対し戸惑いつつも、マスターの言葉を思い出す。
「無理っすよ」
この人に抵抗なんて……敵意の無い愛くるしい貌。CDで聞きまくった大好きな声。行動が尋常ではなくても、はっきりと嫌いと言えない。以前言ったことがあるが、今は違った。楽屋でのキス。あの一件から、純ははっきりと否定できずにいた。
自分から行ったキス。それは呪いとなって自分に降り注ぐ。
「何が?」
沙織が問い返す。
「あ、いえ、沙織さんに対していったわけじゃなく」
「じゃあ何が無理なの?」
「いや、気にしないでください」
「うーん、わかった」
えらく物分かりの良い沙織に対し、思わず純は沙織の様子をうかがった。純が見ていることに即座に反応する沙織は、見つめあう様に純の顔をじーっと見る。いつもの笑顔だ。そう、いつもの。
心の奥底までも見つめられているような感覚を起こさせる沙織の視線、まっすぐな視線。沙織はじっと純の方を見ていたと思えば、突然何かを思い出したように純に話しかける。
「あ、そうだダーリン」
伝え忘れていたと、沙織は言う。
「私のハートを撃ち抜けるのは貴方だけだけど、逆もまた然り」
沙織は手で銃の形を作る。人差し指と中指で銃口を作ってそれを純の口に突っ込んだ。
「貴女の心を奪うのは私、それ以外は認めないから」
それは瞳孔の開いた瞳で放たれた脅し。警告だ。そう、まるで首筋にナイフをあてられた上での警告。だとすれば押し当てられたナイフの前に純はただ首を縦に振るしかできなかった。
「わかった?」
沙織の指が深く深く押し込まれる。
「わ、わはひはひは」
声に出した「わかりました」の一言にようやく沙織は純を許し、それと同時に指が引き抜かれる。喉を抑えながら数度せき込んだ純を見て、心配そうに沙織は純の頭を撫でる。
「わかればよし。大好きだよ、ダーリン」
喉に押し込んでいた指に付いた純の唾液を、ポテチを食べた後の指を舐めるように沙織はなめとった。




