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「随分野良猫を贔屓にしますね、気に入らない」
「あら、鞭で叩くだけが能の女はこれだから。案外かわいいのよ、野良猫って」
ちらりと後ろにいる純を見る。茜と千夏の喧嘩。犬猿の仲なのか、相性が悪い二人。純には千夏の姿が妙に格上、上手の対応に見えた。茜はメガネの位置を直し溜息をついて、口を開く。
「野良猫というのならば、保護が必要では?」
「ええそうよ、当たり前じゃない」
内を当たり前のことを、千夏は鼻で笑う。
「ではしつけも当然必要です。それに慣れない環境、粗相があれば困ります」
「だからなによ。人間にもそれを適用させるわけ? 意味わからない」
「早めのしつけは必要かと、更に言えば彼は自分から沙織さん宅へ来たのです。『完全に』部外者であるあなたに、我が家のルールに口を挟まないよう」
「はぁあぁ!?」
茜の絶叫が狭い室内に響き渡る。その隙に沙織は純の背後に回り、純の首に蛇のように絡みつく。その毒はあまりにも強い。純の耳裏をちろりと何かが触れる。
「ダーリンさぁ、ダーリンさぁ」
一言いえば舌が触れ、
「ダーリン、顔そむけても無駄だよ」
二言言えば蛇女の舌が触れる。
「私はダーリンの奥さんだから」
沙織の長いくせっけの強い髪が純の顔に絡みつく。首を顔を伝う左手、純のシャツの中に入れられた右手、それらの細指一つ一つが蜘蛛の脚のようにぞわぞわと純の肌を侵略する。くすぐりに弱い純にとって、触れられるたびに小さく弱音が漏れる。
「ちょ、っ、さお」
「逃げられるとでも思ってるの? かわいい」
嗜虐心が沙織の心に強い毒として垂れていく。そしてそれは、伝播する。
純の耳たぶを沙織がはむ。幾度も、幾度も、甘噛みで。でも時折歯を立ててがぶりと。蠱惑的な毒を糸氏の彼に。
沙織の左手が純の顔から額へ伸びると、純の長い前髪をかき上げる。沙織の手櫛で純の顔が露わになる。茜は思わず息を呑んだ。生唾を飲む音が、複数聞こええる。
頬が主に染まった純の表情に、茜はもちろん千夏の視線も奪われた。思わず口論をやめて二人は仲良く同一方向に視線を注ぐ。
暫しの休戦。
「ほれほれ、ここがええんか、ここがええんか?」
スケベおやじの様に沙織は純に対するセクハラをやめない。悶えて沙織から逃れようとじたばた暴れようとする純を茜や千夏が抑える。その隙に沙織は純の背中から沙織は純の背中から腹へと移る。彼女たちは純の腕や足を、仰向けに純を床に押し倒した。そして丹田の上には沙織が、がっしりとアイドル活動で鍛えた足で挟んで離さない。これでもう足を抑える必要はない。千夏は足を抑えるのをやめて千夏と協力するように純の上半身を抑えにかかった。
「ちょ、ちょっと落ち着きましょう、ね、ね!」
冷静になって、純は訴えに出た。
あ〃、無常。
目の座った彼女たちにその訴えが届くことは無い。まるで外国人と会話しているかのように、純の言葉一つ一つに何言ってるの? というような表情をする。そして心なしか彼女たちの息が弾んでいる。
純はまるで蜘蛛の巣でとらわれた蝶そのもので、その巣に住まう絡新婦に今まさに、捕食されそうになっていた。暴れもがくたびに純の男としては長髪の髪が揺れ、輝く淡い涙を浮かべた眼が垣間見える。
そのたびに女性陣が嬉しそうに声を上げる。
「今喜んだ、いや、泣いてる?」
「泣き顔も結構いいね」
「甘い!」
「何がよ、アイドルさん」
「通は泣き顔よりココ」
沙織が純の髪を両手でかき上げ素顔を露わにさせると、おもむろに顔を重ねた。しかし唇は唇に運ばれず。純の眼へ。そのまま涙腺にたまった愛の滴、沙織によって作られた極上の滴を舌先ですくった。
「ごちそうさま」
お礼にと沙織が純の頬にいつものようにキスをする。けれどそれで飽き足らなかった沙織は頬に3回、唇に1回、いや頬と同様に3回唇を奪った。それを見て茜も何やらうずうずと物欲しそうに体を小さくゆする。そんな茜を見て沙織はしょうがないなあと言う様にもう片目から流れる滴を味わう許可を下ろした。
「いつも頑張ってくれてるからね」
今だけは許すと、沙織は純の涙を茜に譲る。
「では……」
咳払いをして茜はいざ尋常にと心で念じて、ゆっくりと唇を純の目じりへ。
――あ〃、彼の顔が……。
あと数センチで唇が、涙も、どちらも堂々と……奪うことが出来る。
「でも一回だけね。唇か涙か、どっちか片方だけだよ」
悪魔の誘惑を断ち切るのは、やはり悪魔。
茜は沙織の言葉を受けて涙を選んだ。蒸気の上がったような赤い頬、訴えかけるような淡い陰のある瞳。唇を近づけると出てくる怯え。鉄面皮、動じることがほぼ無いと自負している茜の心に、雨漏りが発生していた。支配欲が茜の心にポトリポトリと染み入る。




