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「うっ、ぐすっ……」
目元を抑え、彼女はすするように声を出す。純も思わず後ろを振り返って足を止めてしまった。そして純は元いた場所へ足を戻すことになる。
「ごめん、ごめんね……ぐす」
何に対して謝っているかを純は知らない。けれど女性の涙、それも自分と別れた矢先に泣かれた日にはいくら純でも無視することは出来なかった。
「だ、だいじょ、うおっ」
あわてて近寄った純は泣いている様子を見せる千夏の顔を覗いてみる。すると千夏は泣き顔を隠すように純の胸に顔を埋めた。心なしか純たちの周りにギャラリーが増えているような気がする。
「ううっ、ぐすっ」
ぎゅっと純の服を掴み、顔を隠す千夏は泣き止むことは無い。大泣きすることは無いが、何かを訴えるようにすすり泣いている。女慣れしていないことで、まさか自分が女性を泣かせる事になるなど想像していなかった純にとって、思考回路にバグが発生する。
エマージェンシー、エマージェンシー。
周囲が痴話喧嘩? スキャンダルか? あの泣いている女性、最近入社した~。
様々な野次馬の声が聞こえてくる。ますます脳がパニックを起こす。
エマージェンシー、エマージェンシー。
何故か純は千夏を胸から引き離すと千夏の手を握り、その場を離れる。そして見知った警備員に事情を話してテレビ局から出ることに成功する。向かった先はテレビ局近くにある小さな喫茶店。以前千夏が言っていた内緒話をするには最適な場所である。
喫茶店に着くなり純は適当にコーヒーとハーブティーを注文。少しして出されたコーヒーを一口飲む。雑味の無いあっさりした味て飲みやすい。尚も顔を伏せ泣く様子を見せる千夏に対し、出されたルビー色のローズヒップとハイビスカスのブレンドティーを差し出す。出されたハーブティーを千夏はほんの少しだけ口をつけた。ほんのりとした酸味とフルーティーな甘みが口に広がる。別添えのはちみつを加えれば尚のこと、優しい甘味が体に染み渡る。彼女はホッと一息をつく。
「あー、その、大槻さん。質問良いかな?」
彼女は答えない。黙秘権を行使するとばかりに、ローズヒップティーに口をつける。仕方がないから純もコーヒーを飲んだ。美味しいけれど、飲んでいるだけではこの気まずい間から逃れるには難しかった。純は適当にメニューを見ておすすめのケーキを二つ注文する。
「ごめん」
純がテーブルに手をつき頭を下げる。その姿をハーブティーを両手でもちながら千夏がじっと見る。
「あんた、さっき言ったセリフ覚えてる?」
「? ごめん?」
「その前! 最低なこと言ってたからね!」
千夏が激怒する。運ばれたケーキを受け取る際はさすが芸能人、営業スマイルを使い感じよく二人分のケーキを受け取ると、手際よく純に渡す。そういう点では気配りできてすごいな、この人と純は千夏に感心する。けれど店員が見えなくなった途端に純に対しては般若となった。
純のポケットにあるスマホがなる。スマホの画面を見るや『妻』と表示された通話画面が出ている。ちらりと許可を欲し気に千夏の方を見る。千夏はケーキを前にして気をよくしたのか、あっさり許可を出した。雨も止んだ様子だ。
「出れば?」
つまらなそうに千夏は小さなフォークをマロンケーキに入刀、一口サイズ分をフォークにさしている。純はスマホの通話ボタンをタップ。相手は妻こと淡路沙織32歳。
「もし、もし、純です」
悪いことをしたのがばれた子供の様に、おどおどと会話を始める。沙織からの心配電話だった。局にもいない、楽屋にもいない純を心配した様子で沙織が電話口で純に語り掛ける。『今どこにいるの? 何かトラブルに巻き込まれてない?』
心なしか純は沙織の口調がいつもと違って優しいことに気が付いた。夫の帰りを待つ妻の様だ。純は素直に謝罪する。沙織はその謝罪を聞くよりも、純の無事を知りたい様だった。
「大丈夫、俺は。今ちょっと取り込んでて、後でまた」
かけなおす。そう沙織に伝えるつもりだった。そこに悪魔の笑みを浮かべた女性がフォークを純に差し出した。
「んー、ここのマロンケーキ最高! ほら、純も食べてみなって」
まるで彼女の様に、デート中の男女の様に、純の口にケーキを運ぶ。今は大丈夫、純は手で食べないことをアピールするが、悪魔はかいがいしくなおもケーキを食べさせようとする。らちが明かないと純は観念して口を開いてケーキを食べた。
黄色い固めのマロンクリーム。栗の味が濃密で弾力のあるスポンジとの組み合わせは食べごたえがある。
「あ、美味しい」
思わず感想が漏れてしまった。
「ダーリン口元にクリームついてる」
嬉しそうに千夏が指で純の口元についているクリームを指ですくうと、純の口にその指を自然に挿入した。赤ちゃんの様に指をしゃぶる形となり、恥ずかしさで顔が赤くなる。
「やーん、ダーリン恥ずかしい? お家に帰ってからゆっくり食べたい?」




