03 お引越し
彼は大学生でした
純は思った。
高嶺の花。
それは手に届かないからこそ美しい。
遠くから眺めているからこそ粗が見えにくく、美しさが増すものだと、純は思う。
一寸先は闇
見えないからこそ人は恐れ躊躇い、足踏みするのだ。悩むのだ。純は実感する。
身に余る栄誉
傍から見れば彼等の立場は「私と変わってくれ」と言われてもおかしくはない。
「今日からよおしくね、ダーリン」
純の肩にぴとりと寄り添いながら、沙織は言う。隣に立つ純はといえば、ペットショップからやってきた子犬のようだったと、後に茜は語っている。
純のアパートは八畳一間。加えて白物家電やテレビも新居にはすでに用意されていれるため教科書、学校関連や私服、携帯ゲームや少々の漫画以外はあまり無く、荷物は少ない。マネージャーである茜の手際の良さからか、あっという間に段ボールが空になり、畳まれていく。
「あ、それはだめ!」
純のトランクスを淡々と畳んでいる茜の手から、純のデパートの3枚で千円の安物トランクスを取り上げる沙織。
「これが純君の下着……」
まじまじと理想の男に近い人物の生下着を前に、沙織の表情は熟れたトマトのように真っ赤になり、嬉しそうに、少々の恥じらいを隠すように沙織は無意識に、息を荒れさせながら将来夫となるであろう男の下着に顔を埋める。メイクが落ちてしまうほどに顔をくっつけると顔を横に振り、自分の匂いをマーキングするように……ぺろりと舐めた。
「柔軟剤の香り、純君はこの匂いが好きなんだね、はぁはぁ、ローズ系の匂い、はぁはぁ」
なおもその行為をリピートしては悶え死ぬ。といった様子に沙織は純の下着を次々に箱から開けては匂いを嗅いでいる。
匂いフェチというわけでない沙織であったが沙織’s EYEでは純の容姿は合格。年齢もオッケー! 包容力(押しに弱い!)まさにドストライク、ど真ん中、さよなら満塁ホームラン、ファン公認の関係!!!(これ大事、大事だからもう一回言うね♪)ファン公認の関係! ラブラブ!
なんだかんだ言いながら、タクシーを乗降時や家に入る際、純は無意識にエスコートするように沙織を大切にしていた。本心としては、無意識的にあこがれのアイドルである沙織を無下にすることが出来ないというが彼の行動原理。深層心理である。
その際に見せた純の笑顔、瞳、女性のように細いながらも男と意識させる大きな手。いろいろ沙織のリミッターブレイクはあっという間、ダム決壊、崩壊中である。
「さ、沙織さん?」
「安心してください、平常運転です」
「嘘だ!」
純は茜の言葉に反射的に叫んでしまう。
「アイドルとはそんなものです。受け入れてください。旦那様」
メイドのように深々と頭を下げる茜の姿を見て、思わず息を呑んでしまう。
所作の一つ一つに乱れはなく、ある種の芸術のようにきれいな茜の姿を、純はじっと見つめている。目を奪われてしまった。
「純さん」
頭を上げた茜はその視線に気づき、見つめ返した。
――綺麗な顔だ。
品定めをするつもりはなかった茜であるが、純の顔を見ているうちに口から零れてしまう。
「一般人にしておくにはもったいないですね」
「え?」
「忘れてください」
はぁとため息をついて他の段ボールを開封し作業へと戻っていった。
「ちょ、ちょっと、今の」
なんだったんだ、と純は先ほどの言葉の意味を問い返そうと、段ボールの前で座っている茜の背中をポンと触れようとする純であるが……、
「ダーリン」
その手がつかんだのは空である。代わりに彼の手首を、沙織が手錠をかけるようにガシっと掴んだ。
「ダーリンのその手が掴むのは、その人じゃないぞ」
いきなり手首を掴まれた純は悪いことをしたのがバレた犬のように、びくりと大きな反応を見せた。
「ね、ダーリン」
純は隣に立つ妻となるとされる女性の声を、問いかけを聞きながらも彼女の顔を見ることが出来なかった。
着ていたシャツが張り付いて気持ち悪い。だらだらと背中から冷や汗をかいているのがわかる。手首を掴む手のひらはひやりと気持ちのいいはずなのに、体は冷えるどころかどきどきと火照っていくのがわかる。心拍数が上がる。悪いことをしていないのに、悪いことをしたかのように錯覚させる彼女の声に、彼の心臓はノミの様に大きく飛び跳ねている。