28 魔法をかけて
啖呵を切った後の手際は見事なものだった。茜は千夏の襟を掴んで思い切り引っ張った。野良猫を捕らえるように彼女は軽々と千夏を持ち上げる。その間に沙織が倒れこむ純の頭を抑え、落ち着いてと声をかける。
「ダーリン、ダーリン」
声をかけられ、ぶつけた頭部をさすられて先ほど救出してくれた主が誰かを知る。
「さおり、さん?」
会いたくなかった人物が、そこにいた。テレビでよく見る衣装で、メイクで。純は自身を助けてくれたセイバーの正体を知り、脊髄反射で体を起こそうとする。けれど両肩を抑えられて起き上がることが出来ない。その小さな体のどこにそんな力が存在するのか、痛む頭で純は考える。
けれどそんな純の顔に、ぽつりと一滴の雨が降った。
その一方廊下隅で二人のアマゾネスが戦っていた。
ナイフの様に鋭い拳を放つ千夏と、その力を上手くいなして相手の鳩尾に潜り込む茜。殴られる、反射的に身構えた千夏の体を茜はベアハッグで捕らえて持ち上げる。170近い茜の体に、160とちょっとの千夏ではやはり不利なのか、ワンハンドスラムで床にたたきつけられかける。
猫の様な柔軟性を見せて千夏は振り上げられた腕から逃れると、胸の前で拳を構えてファイティングポーズを崩さない。一瞬の隙を見ては攻勢に出るが、それらは全て茜の罠だった。けれど今一瞬確実に、茜に隙が見えた。
「プロレスか何か知らないけど、最速の格闘技をなめないでよね!」
――獲った!
勝利を確信したとき、気がつけば彼女は床に倒れていた。
何が起きたかわからない、スパーリングを行ってこなかった彼女にとって、この痛みはわからなかった。それに自身の技は、拳はどうなったのか、魔法にかけられたように崩れ落ちた彼女の体を、米俵を運ぶように茜が担いだ。
「沙織さん、後は頼みます。自分はこの野良猫を片付けてきます」
物騒な物言いの茜と敗北者である千夏が退場する。沙織は手を振って了承したとハンドサインを送る。純はと言えば、沙織の表情にくぎ付けになっていた。泣いているのだ。あのアイドル、さおりんが、自分のために。
思えば自分のために泣いてくれる人が、過去にいただろうか。家族以外で、血縁関係を除く者たちの中で。いない、存在しない。そんな人はいないのだ。けれど目の前で、自分のために泣いてくれる人がいる。心配してくれる人がいるのだ。真冬に凍えた体を温めるために飲んだシチューの様に、それ以上に胸の中が温かくなる。
「沙織さん?」
沙織は母の様に、母性に満ちた笑顔で純を見る。目には涙を。思わず純は腕を伸ばし、指でその滴をすくう。その手を沙織は両手で包むようにつかむと、その手を自身の頬に触れさせる。
「無事でよかった。このまま死んじゃうんじゃないかって」
「この程度でんなバカな」
「馬鹿じゃない!」
軽口で余裕を見せようとした純を、沙織の張り上げるような声で遮られる。
「後で病院行こうね、約束、絶対だよ」
互いの小指同士を絡ませて「指切りげんまん」と誓いを、まじないをかける。そんな異様な光景を目にしたテレビ局の社員が、二人にどんな関係か声をかける。沙織は赤い目のまま、スタッフに答える。
「家族」
いつも聞いていて嫌だった言葉が、今日の純に、今の純にとって少しだけ、ほんの少しだけ心地よく聞こえてしまう。そしてスタッフが純の方を見ると、純は同意と見受けられるように、はにかんで笑った。
「俺のためにありがとう、沙織さん」
婚約、攫われてから純は初めて人前で沙織に対しデレた瞬間でもあった。沙織も純が受け入れてくれたことで、また泣いてしまった。メイクが落ちてしまう。純が後頭部を抑えながら立ち上がり、沙織の涙をすくう。アイドルは泣き顔より笑っている方が素敵だ。純は沙織の手を引き楽屋へ連れていく。
部屋には誰もいない。
「沙織さん、メイク」
沙織のメイクは涙ですこしだけ落ちてしまった。純は直さなきゃいけないと沙織に言うと、スタッフを探してくるから待っていてくれと楽屋を後にしようとする。それを純の背後から抱きしめることで沙織が防ぐ。
「いかないで」
「でも……」
「少しだけ、ほんの少しだけでいいの」
純の背中に頭を預けてケーキの様に甘いボイス、それでいて何処か寂しさ、イチゴの無いショートケーキのような寂しさを匂わせて純を引き止める。純は沙織の腕が離れると振り返る。
その頬は白く塗られた化粧越しでも赤く、吐息もすこし上がっている。愁いを含んだ瞳に、何かを訴えるその視線は女性として、セックスアピールとしては十分だった。
「いかないで」
純のシャツの裾を指でつまむ。その指を、手を純は握った。沙織の手は冷たかった。純の手の温もりが沙織に移る。かよわい女性としての一面が、純の心に魔法をかける。
――抱きしめたい。




