22 まけたよぉぉ
またうとうとしかけていると、買い物に出かけた茜が帰ってきたことを沙織は知る。彼女の女性としてはちょっと低い、聞き取りやすい「沙織さん」と自身の名を呼ぶ堅苦しい物言いが聞こえる。ノックの音がしたのち、夫婦の愛の巣へと茜が侵入してくる。
「なんのよう?」
そっけなく沙織は茜へ問いかける。来た理由なんて手に持っている者を見ればわかるのに。自身を意地悪だなあと思う反面、ここ最近感情豊かな茜の反応に注目する自分がいる。ファンの前で消して見せることのない一人の女、愛の女神アフロディーテの加護を得たような少し尊大な気分で茜から視線を逸らす。茜の持っている者を見る。自然と口角が吊り上がり、眼が蕩ける。
やれやれといった様子で溜息をついた茜は沙織にプレゼントを渡す。「迷子になっていた」と適当な理由を添えて。沙織は待ち望んでいた者を受け取ると、大きなクマのぬいぐるみを抱きしめるように、ぎゅっと両手で抱きしめる。
「ありがとう、大好きだよ茜ちゃん」
含みを込めた声音で沙織は言う。茜はそれに対しさしたる反応を示すことはせず、メイドロボの様に深くお辞儀をし、部屋を出る。季節外れのサンディクローズがもたらすのは愛かそれとも、沙織はプレゼントを抱きしめて気が付いた。匂いだ。爽やかなシトラス系の匂い。沙織がかつてよく使用していた香水の匂いが、彼から香る。
嫌いじゃない。沙織は思った。当てつけで付けたのだろうか、そんなことは関係ない。むしろ彼女は感謝をする。彼に付いたそのシトラスの匂いは、沙織がまだ未成年だったころを彷彿とさせる。青春がよみがえる。女子高時代の思い出。彼氏のいない、けれどまだ焦っていなかった時代を。その思い出に、彼が追加される。妄想がはかどる。彼ともしあの時出会っていたら、自分はどんな恋に落ちていたのだろう。
そんな妄想を、現実に彼を抱いて夢想する。
――シチュエーションはそうだな、やっぱり放課後かな?
――それとも仕事終わりに隠れて彼と、きゃっ♪
妄想がはかどる、胸が高ぶる。暑くなる。ネグリジェのボタンを一つ二つと外して二つのメロンを少しずつ露わにしていく。そして抱きしめた彼の耳たぶを甘噛みしながら沙織は生肌で彼の感触を感じながらベッドになだれこむ。ぼふっとベッドが跳ねる、スプリングがきしむ音がする。胸が高鳴る音が鳴る! 響け心の愛のシンフォニー!
一時間とちょっと経った頃、食事ができたと茜から報告が来る頃には彼、純の首筋や頬に愛を。そして唇には消毒を、バラの様に美しい真っ赤な唇で痕が残っていた。沙織はベッドで膝を立てて足を少し開いて座る。そして自身の太ももで夫の頭を挟むんでいる。こうするとダーリンの顔がよく見えるの。沙織は純の顔を飽きずにじーっと見ては、時折自身のスマホで写真を撮る。
寝顔、寝顔、寝顔。無防備に寝ている、本当は気を失っている純の表情をアルバムへ保存。ちゃんと撮れているかをスマホのギャラリーで一枚一枚確認していく。中には流出したら問題になりそうなキスシーンもあった。過激なファンが見れば何をするかわからない、キス。彼の頭を抑え、彼の手が腕が沙織の後頭部へまわされた状態、密着状態でのキスシーン。濡れ場を演じる女優の様な蕩け切った表情、それでいてその瞳はトリップしたかのように焦点が合っていない。反対に純は恥ずかしいのか、瞳を閉じている。
「んふふふ」
やばい、声が漏れちゃう。
沙織は喉を鳴らして声を整える。
「あー、あー、よし」
あどけない少女の様に可愛いボイス。よし、いつもの自分だ。沙織は彼の顔に自身の顔を近づける。体の柔らかい彼女は難なく彼とキスできる距離まで顔を近づける。ふっ、と甘い息をダーリンこと純にかける。すると純がくすぐったそうに顔の向きを変える。今度は沙織がくすぐったそうに小さな耽美な調べを奏でる。
「もう、ダメだってばダーリン」
沙織の表情に艶が乗る、肉欲の化粧が映える。そのまま顔を純に再度近づけた沙織は、ゆっくりと口を開いた。放たれた呪いはたった2文字。
ス
キ
そのたった二文字の言葉を、彼女は幾度も呟く、重ね掛けをする。
――好き?好き。好き!スキ、好き?すき?すき? 好き!スキ! すき?
――女には愛を、時には嘘を。
愛を注がれれば盃は満たされる。けれどその杯の底には一杯の毒が既に垂らされている。それは不安定な足場に存在する禁断の聖杯。一度に飲み干せば幸せが満ちる。残し捨てればそれは男の体を砂時計の様にじわりじわりと蝕んでいく。
純はそれに手をかけてしまった。美しい純白の幾百の宝石が装飾された盃を。興味本位で触れてしまった。それは人には重すぎる物だった、神々のための盃。元来髪に近づいた人間には裁きが下される。




