19
夢の中で純は自由だった。空を舞うような高揚感で、キャンパスライフを楽しんでいた。図書館で小説を読み漁り、お遊びサークルに精を出し、講義は最後尾、それも窓際の特等席で寝る。そして起床すればあら不思議、講義は終わっているし出席もしたことになっている。
そうなりゃ今度はサークルだ。
アハハ、アハハは、と楽しんでいる純だった。
「おい、つぎあれやろうぜ」
5畳程度の狭い部室、レトロゲームを片付けた純が、おもむろに10W程度のアンプを数台コンセントと通電させる。長い髪をゴムで縛り、ピックガードの無い、真黒でエッジのとがったストラトタイプのギターを手に取ってストラップを肩にかける。部屋にいた友人は真っ赤な真っ赤なミニボディに、6弦ボディサイドから斜めに引かれる3本の黄色いコンペティションライン。ドラムは欠席。二人で適当なパンクロックを奏でていく。10Wのアンプのボリュームを最大限に上げ、エフェクターもばっちり。軽く歪ませたギターの疾走感あるコードトーン、正確さよりノリを求めたベースが踊る。
決して上手とは言えないが、楽しんでいることが伝わるメロディー。友人の顔を見て笑う純。そしてそれに呼応して笑って2フィンガーでベースを鳴らす。マイクはいらない、二人で声を張り上げて二人は歌う。ピックを振るう。
ジャラーン、最後のコードを鳴らし、はぁ、はぁと軽く息を上げて純は再度隣に立つ友人の顔を見た。そして悲鳴を上げた。見知った友人の顔は血に染まり、蛹、脱皮をするように友人という殻から数匹の蜘蛛が湧き出てきた。
かさかさ、かさかさと。それは蜘蛛というには余りにも大きく、小型犬以上の大きさだ。逃げようとする純を粘り気のある糸で絡めとっていく。綿あめを作るように、純を中心に糸が張られる。楽しかった部室に、遊び場が途端に古臭い家の様に蜘蛛の巣で支配される。
逃げようとしても、複数の瞳が純をにらみつける。真黒なギターも、3本ラインの入った赤いベースも、真っ白な繭の様に糸で覆われてしまう。純の背中を中心に放射線状に広がりを見せる蜘蛛の巣は、純を逃がすことは無い。解いたと思ったら、あっという間に次の蜘蛛の巣が純に絡む。
逃げようとする純は、手に付いた蜘蛛の巣や足に付いた糸を振り払おうと足元を見た。
蜘蛛がこちらを見ていた。真っ赤な砂時計のような模様のついた蜘蛛が、純の足元を歩く。振り払おう、踏みつぶそう、いくら大きくても蜘蛛は蜘蛛だ。
俺の聖域を汚すんじゃない、怒りを込めて足に力を籠め足を上げる。視線は気味の悪い蜘蛛。
「死ね」
口にした矢先、どこからか声が聞こえてきた。
「子供」
女性の声?
「何人」
それも複数? 右も左も上も、そして下からも聞こえてくる。どの声も高さや声色に特徴がある。けれどどの声も聴いたことがある声だった。けれど今はそんな幻聴関係ない。今はこいつを退治してやる!
蜘蛛を殺そうとした矢先、純は反撃を食らった。足元の蜘蛛がダニの様にぴょんと跳躍し、純の胸にくっついたのだ。
「ほしい?」
一匹の蜘蛛が純の胸に跳んできたことを合図に、周囲からピョンピョンと蜘蛛が跳んでくる。頭、肩、腕、足、背中。
「ひっ、ひぁっ」
恐怖はこれからだった。それら蜘蛛が、徐々に重くなる。胸にいた蜘蛛が大きくなる。肩に乗った蜘蛛が変態する。足についた蜘蛛の手足が大きく、しなやかに伸びていく。そして皆が合唱、輪唱する。
――純
――かわいい坊や
――磨けば光る醜い子よ
――私の心を解かさないで
――解かすのだったら……
――あなたの心を私に頂戴
――貴方の血を、精を、命を、盃に満たして。
蜘蛛の体が見知った者に姿を変える。起伏のある者、無い者、人とは思えない青白い肌の女、白無垢の様に純白の衣を纏うフェアリーのような可愛い者や、胸元が大きく開いた妖艶なサキュバスのような者、手に武器を持った者。蜘蛛から完全変態した者たちが、一斉に純に襲い掛かる。
遠慮がちに、それでいてやるときは容赦のない、彼女たち。吸い付く唇が離れない。噛みつく牙が離れない。長い髪を鎌で切り自分好みに変えていくローブをまとった女。吸い付いて離れない青白い女、服をはぎ、吟味をするように純の体を触るサキュバス。
好き勝手に純をいじる彼女たちから一歩引いた場所で純を見るフェアリー。
そんなフェアリーと純は目があった。心配そうに、それでいて何か恥じらいを持った様子で純の方へ近寄ることのないフェアリーが、純の視線を奪う。助けを求めるように純は無意識にフェアリーのいる方へ手を伸ばした。
伸ばされた腕を見て、フェアリーはどうしようか迷った様子を見せる。栗毛色の、フェアリー。けれど伸ばされた腕に引き寄せられるように、とことこと純の傍に近寄り、純の薬指を小さな手で握った。
「私で、いいの?」
もみくちゃ、唇を青白い女に奪われる。心なしか青白い女に血色が戻ってきている気がする。サキュバスにより体が敏感になっていく。鎌の音に恐怖を感じながらも、自分好みに仕立てて喜ぶ死神に恐怖を覚える。
そんな中ただ一人無害そうなフェアリーに引かれるのは、人として当然だろう。フェアリーは選ばれたうれしさからか、純の薬指を握って俯いた。
――責任、とってくれるよね?
次の瞬間、純の周囲に真っ赤な噴水が出来上がった。
フェアリー以外の女性が消える。代わりに現れるは鮮血の噴水。
目を大きく見開き驚く純の前に、鮮血のシャワーを両手を広げて浴びる少女がいた。
「はぁぁ、幸せ」
少女の期間は短い。
大人への階段を一瞬で駆け上る少女、栗毛色の毛髪から彼女が先ほどのフェアリーであることが分かる。白無垢は真っ赤なウェディングドレスへと変わり、純の衣服も同色へと変化させる。
鮮血に酔うフェアリーの口から、聞き覚えのある言葉が紡がれる。
「ねえダーリン」
やめてくれ、
「子供だけど」
やめてくれ、
「私は一男二女がいいんだけど」
やめてくれ、純は彼女の変化、正体に言葉を失う。
「ダーリンは何人ほしい?」
彼女の羽が堕ちる。変わりに出るは先端が鎌の様に尖った細身の4つの脚。それはまるで、男を捕らえる……、かわいらしい貌が、瞳が8つに変化する。
「ダーリン」
蜘蛛女が、純に絡む。逃げようとしても彼女の背部にある4つ脚ががっしりと純を抱きしめるように離さない。彼女の8つの単眼が一斉に純を見る。言葉が出ない純。
「幸せ?」
嬉しそうに笑う彼女は、ゆったりと純に身を預けるように体を重ねる。純が床に体を預けることは無い。預ける先は、彼女の作る新たな愛の巣。二人が世界の中心であるかのように作られた、彼女たちを中心として放射線状に続く糸たちのワルツ。彼女の鋭い牙が、純に愛の証を刻み付ける。アニメのヒロインのような甘いボイスで囁くは愛。
もがけばもがくほどに二人を簀巻きのように糸がくるむ。純から垂れる脂汗を、蜘蛛女がなめとった。
「貴方の愛を、私に頂戴」
自身が好きだったアイドル、さおりんの声で蜘蛛女が囁く。そして二人の影は一つになる。薄れゆく意識の中、純は思う。
――悪夢か現実か、それとも何かを知らせる予知夢だろうか。




