18
ぎしぎしと揺れる愛のゆりかご。巣に戻るまでの時間、蝶々は体のいたるところを蜘蛛に噛みつかれ、吸われた。巣に戻った時には首や胸、腕にいくつもの彼女にとって愛の証が植え付けられていた。そんな中、純の瞳から流れる涙を沙織は指ですくう。
「芸能人、なめたら怖いぞ♪」
赤信号で停車中、涙の付いた指を運転席にいる茜の口に差し出す。茜は指に付いたホイップクリームをなめるように、沙織の指をなめた。
「美味しいですね」
「私も舐めてもおいしいダーリンが好き」
簡潔明瞭。
茜の言葉に沙織は同意する。そして再度純の涙を指ですくうと、今度は自身の口内へ。アイスキャンディーをなめるように、彼女はどんな上等な日本酒にも負けない愛の滴を堪能する。
「好きだよダーリン」
お礼に渡すは頬へのルージュ。純の頬に真っ赤な跡が残る。そして口には手拭いが巻かれる純である。ふがふがと入れ歯が外れた爺さんの様に何かを訴える。けれどそれは棄却される。代わりに純の首筋に強い痣が出来る。
女性からのキスがこんなにも恐ろしいのか、純の心にトラウマが植え付けられる。彼女の一挙手一投足に、体が過敏に反応するのだ。そしてそんな夫の姿を見た沙織は、心底惚れこんだ。――ダーリンの心を支配しているという感動で。
けれど逃げたことは絶対許さない。沙織は笑った。
譲れない心に決めたことがある。帰ってくるのを待っていては、老いが迫ってくる。死神の足音が。だからこそ沙織は怒っている。待っているだけのヒロインはもう古い。王子様が現れた今、待っている理由などない。
天使のような笑顔で、悪魔は笑う。
に、が、さない。
――だって悪いのは、ダーリンだもん。
天使の皮をかぶった悪魔が、青ざめる王子様の頬をさすりながら、ウィンクをして笑った。
茜は怒っている。表情には出さないが、車に純を投げ捨てた時には思わず力が入りすぎ、純がけがをしていないか不安になった。逃げようとする純の胸を両手で強く推して倒した時も、後頭部を思い切り強打した純の姿を見ても、不安になった。
また逃げるんじゃないかと。
両手の温もり。純の体温、運転中、鼻をこする仕草をしていた彼女は鼻炎だったわけではない。彼女は匂いを嗅いでいた。フェロモンを、残り香を。数度のタッチで匂いが付くわけもなく、香るのは茜自身の服から香る柔軟剤の匂い。
けれどそんないつもの匂いに、先ほどの行為で彼の匂いが混ざったという事実に、彼女は幸せを感じる。差し出された純の唾液。沙織の甘い匂いと合わさり、旨み増量エクストリーム。
興奮しても正確なハンドリングさばき、的確な判断力は失われていない。渋滞や狭い路地も難なく通過していく彼女は、ナビを使わない。帰巣本能に頼るように最短経路で巣を目指す。ミラー越しに倒されている純の表情が、姿がチラリちらりと見え隠れする。
――目があった。助けませんよ。
溜息はつけど、声はかけない茜。表情の機微が少ない鉄仮面と称されたことのある彼女の容姿。またある者は彼女のその冷たさ、それでいて可愛いではなく綺麗に整った容姿を称え、こう称した。
――アイアンメイデン。
そんな彼女が今、胸の裡をさらけ出そうとしている。正確には開かれそうになっている。一人の男のせいで。一人の男が見せる甘い誘惑のせいで。恋に落ちたわけではない、彼女は判断する。ただ思ったのだ。気にいった人物が好きな人物、それが自身に与える影響を。そして知ってほしいだけなのだ。主にも、その伴侶にも。鉄仮面の下は無機質ではないことを。
「今日は暑いですね」
独り言をつぶやき、ブラウスのボタンを一枚外す。ペットボトルのお茶を開け、ごくりとのどを鳴らして潤す。
「ああ、今日は暑いですね」
ブラウスのボタンに手をかけ、もう1枚とボタンをはずす。ブラウスからのぞかせる彼女のベージュの下着。谷間。暑がりボタンをはずす茜の姿を見た沙織が、「茜ちゃんもやる気満々だね」と笑う。
「そうですね」
青信号になりアクセルをゆっくり踏んで出発。茜は沙織に同意し、言葉をつづける。
「早期のしつけは今後の生活をするうえで大切ですから」
「ダーリンはペットじゃないぞ」
「ええ、でも逃げようとした事実もあるので、それとも沙織さんは許すのですか?」
一瞬純が茜の言葉に沙織が流されないかを期待する。けれどそれは儚く散った。
「許すわけないじゃない!」
ぬいぐるみを抱きしめるように、倒れている純の体を、後頭部に手を回して抱きしめる。純の顔が沙織の胸に挟まれる。柔らかく女性らしい甘い匂いは幸せだろう、けれど純は逃げたい衝動から、先ほどの電気ショックのこともあり息も上がっていた。そのため抱きしめられてまず抱いた感情は、苦しさである。
「はぁぁ、純君の頭部の匂い。やぁん、ダーリンくすぐったい」
鼻をこすりつけて、純の頭頂部の匂いをかく沙織と、顔を谷間に押し付けらてて苦しむ純。そんな純の頭の動きをくすぐったく感じた沙織は蕩けた声を出す。
「沙織さん、それ以上はまずいかと」
「邪魔する気?」
殺気でけん制をかける沙織に対し、茜は「彼、死にますよ」とアドバイスをする。犯人は谷間、お前だ。沙織は胸の中で苦しむ純を、じっと見た。焦って動く純を、じっと見た。
「ほぇ? あ、静かになった」
気絶した純を見た沙織の顔から、さーっと血の気が引いていく。恐る恐る純の顔を胸から離していく。カーテンの様に長い前髪が純の表情を隠している。数秒後つんざく様な、1000本のナイフが一斉に投げられた様な声が、車内に響き渡った。
「落ち着いてください。もうすぐ家に着きますから」
最後の曲がり角を曲った先に、彼女たちの巣が見える。茜は事務作業をするように、車を駐車場に頭から入れた。そして降りるや後部席側のスライド式のドアを開ける。
「ダーリンダーリンダーリン」
気絶した純の頬をペチペチと叩く沙織。慌てふためく沙織は涙をぼろぼろと零し、純に声をかけ続ける。茜は純の口元に手をかざし、その後に頭を、耳を近づける。呼吸はしている。問題ない。
「大丈夫でしょう、医者に連れていくことは無いかと」
「ほんとぉ?」
「ええ。休めば時期に起きるかと、よいしょ」
目元を真っ赤に腫らした沙織が、茜を見ながら尋ねる。茜は純の手錠をカギで外すと、純を羽交い絞めにしてずるずると車内からおろした。それはまるで麻酔銃を華麗に使うステルスゲームの主人公の様な手並みだった。途中ガンガンと足を車や階段にぶつけられた純であるが、幸いにも気絶しているため痛覚は無かった。その間に沙織は二人が下りた車に鍵をかけ、家の鍵を開錠し、二人を家に招く。そして施錠。あわれ巣から逃げた蝶々は再度糸の中を舞うことになる。




