17 朝蜘は縁起がいい?
夜が明ける。
純は自身に起きている状況に気が付かずに、朝を迎えた。サラリーマンが通勤を始めるころに漫画喫茶を出て、大学近くのハンバーガーショップに向かう。先輩から大学で使っていた教科書を譲り受けるための、待ち合わせ場所だ。
別に大学でもよかったのだが、先輩がハンバーガーが食べたいからという理由で、純は二人掛けのテーブル席で待っていた。暇つぶしにスマホでネットサーフィン。見ているのは不動産サイト。礼金の無い物件を探すも、大学近郊はやはり家賃が高く手が出せない。今後の生活をどうすべきか思案し、適当に頼んだ一番安いハンバーガーをかじる。
「ごめんお待たせ、待った?」
目の前に大きな紙袋が置かれる。
「あ、いえ」
スマホの画面を消し、顔を上げる。そして純は、持っていたスマホを力なく床に落とした。どうしているんだ、どうしてわかったんだ、なんで、なんで、なんで!
同様の隠せない純を見ても彼女は気にする様子を見せず、床に落ちたスマホを拾ってテーブルに置いた。そして当たり前のように対面の席に座った大き目のサングラスをした少女と目が合った。しかしその少女はその容姿に不釣り合いな大きな胸を持っていた。サングラスに手をかけ、外した少女はいたずらっ子の様に舌を出してにこにこと笑った。それに対し、純は探偵物で追い詰められた追い詰められた犯人の様に狼狽する。
そんな純を見た女性は相も変わらず、にこにこと笑っている。けれど純はあることに気が付いていた。楽しそうな雰囲気を発しているはずの目の前の女性の目が笑っていないことを。それが作り笑いだということに。そしてその少女が、自身の良く見知った女性であることに。
そしてその眼は獲物をじっと、腱一つの動きですら見逃してはいなかった。
「用事を思い出した」
わざとらしく立ち上がった純の腕に自身の日焼けを防止するためか薄手のパーカーを羽織った腕を絡める。それは純にとって手錠のようなものだった。押し当てられた谷間がなお、純の腕を逃がすまいと挟み込む、絡みつくようだと恐怖を感じた。
「そうだよね、用事を思い出したよね」
聞きたくない、聞きたくないと純は開いた腕で片耳を塞ぐ。けれど女性は、妻は、容赦なく言葉を紡ぐ。男を絡めとるための糸を、発していく。
「昨日の申し開きを聞こうかな、あ、この言い方だと固すぎる?」
「あ、淡路さん」
対面に座る距離を置きたい相手の名を、純は呼ぶ。けれどそれ以上言葉を発することは出来なかった。純の今の一言で少女、否、女性、否、自称向坂純の妻、淡路沙織が無言になった。ぐいっと体重移動も含め全身の力で純を近くのコインパーキングへ連れていく。傍から見れば、純の姿はデート中に彼女に振り回されている彼氏の様だった。
コインパーキングはハンバーガーショップから100mもない場所にあった。駐車場に着くなり沙織を迎える女性がいた。すらりとした美人。メガネが似合う、キャリアウーマン沖茜。
「助けてください」
純が言う。彼女たちは無言で顔を見合わせ、うなづく。純を中心に左右対称に立った彼女らは純を火星人を連行する宇宙飛行士の様に、引っ張った。そして無理やりワゴン車後部へ押し込むとガチャリと手錠をはめた。右手と左足、左手と右足。
ガチャガチャと金属音を響かせる純。後ろのシートは外されていて、大人二人が寝れる程度のスペースがあった。倒される純と、更に追い打ちをかける沙織。
「離せ、くそ、くそ!」
じたばたとあがく純の頬を両手で捕まえてじっと顔を近づける。顔が近い。心を見透かそうとする目が怖い。純は誘拐された少女の様に泣き言をぼやいた。
「ダーリン、逃げようと思えばもっと抵抗できたはずだよね?」
しないってことは、恥ずかしそうに顔を染める沙織を純は否定する。
「もういいだろ、俺に何の恨みがあるんだ! ちくしょう!」
「なんで逃げたの?」
「もう帰してくれ!」
「それとも迷子になっただけ?」
「もう嫌だ!」
「警備の人から聞いたよ。女と会ってたって」
「それがどうした! 俺の勝手だ、ぐっ」
突如純の腹部に鋭い痛みが走る。
「ダーリンのバカぁ!」
鬼娘と化した沙織が痛みの正体でもある物を、純のお腹にリモコン型で先端がクワガタのような黒い物を、ぴとりと当てる。
「うち許さないっちゃ!」
スイッチオン!
「ダーリンのバカぁぁ!」
「うぐぅっ、ああ、がっ」
喚く純の腹に、電流が走る。1,2,3。三度の衝撃に、純は体を跳ねさせ、体を震えさせる。
「起きて、ダーリン」
沙織はラベルの無いペットボトルを手に取った。中身はリンゴジュースのような色をしている。そしてそれを純の頭にじょろじょろとかけた。それはまるでマーキングをするかのようで、純の頭から体にかけていく。
「な、何の水だよ、これ! ひっ」
クワガタムシのような先端をした長方形の凶器が、純の顎に当てられる。
「言いたいことはそれだけかな? ん?」
ベビーフェイスから発せられる、やくざ顔負けのどすのきいた声。けれどもう構うもんかと、純の体に恐怖が走る。びりりと電流も走る。痛い熱い、痛い。
「言いたいことはそれだけかって言ってるんだよ!」
純の長い前髪をつかみ、沙織が切れる。外面菩薩内面夜叉。
「ダーリン、そんなに帰りたかったら帰してあげる」
涙目になった純の整った顔立ちが露わになる。一瞬沙織の動きが止まった気がするも、沙織の機嫌が上昇することはない。
――許して。
純の脳裏に浮かんだ謝罪の言葉。この一言ですべてが許される、訳がない。反論は許さない。沙織はキスで純の言葉を塞ぐ。車が発車する。行先は帰る場所。絡新婦は巣へ、捕らえられた蝶々は決して絡新婦から逃げられることはない。長いキス。口を離した時には因美に二人をつなぐ蜜が垂れる。
「家族会議の時間だよ、お題目はそうだなあ、えーと、旦那の浮気について!」




