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千夏と別れた純は、タクシーの中でぼーっと前を見ていた。ドライバーの世間話にも相槌を打つのみ。会話内容は右から左へ、川流れ。行先は近くの駅。ドライバーも純のことを女性に振られたか何かで傷心中なのだろうと判断し、そっとしておくことにした。
――場違い。
所詮自分はただの一般人。芸能人として活躍したいという野心も無ければ、テレビ局からサポートしたいという願望もない。ただ大学を出て何となく就職をする。そして30過ぎたくらいで結婚して、……そんな生活を漠然と想像していた純にとって、撮影現場は刺激が強すぎた。
あてられてしまったのだ、飲まれてしまったのだ。居ても立っても居られない。ただ一つ分かったことがある。
――俺に沙織さんは幸せにはできない。
沙織の気持ちを考えるよりも先に、純は自分で結論を決める。そう、からかっていただけだ、だけなんだ。芸能人が一般人をからかっていただけ。
そう考えると途端に笑えてくる。くふふ、ふふふと俯き手でおでこを触れながら、純は駅に着くまで笑っていた。そんな姿をミラー越しに見ていたドライバーが「かわいそうに」とぼそりと漏らした。
「運転手さん、行き先変えるわ。ここ向かってくれ」
指示した場所は駅ではなく、絡新婦の巣。
タクシードライバーに支払いを終えると、純はすっきりした様子でタクシーを降りた。そして巣に戻るなり純は適当に貴重品だけをもって、でていく。書置きはない。そこが沙織との思い出を、全てを捨てる決心をしたためだ。アイドルからの卒業、それ自体が存外楽だったことに驚きを感じる。スマホにある二人の連絡先をブロックし、消去。アパートにある私物は捨ててくれとだけメールをする。通帳や貴重品はほぼ実家にある純は、手荷物としてボストンバック一つを増やし、巣から逃げるように走り出した。
これから数日、泊まるところどうしよう。教程も買いなおさないと、やるべきことを頭でリストアップする。そうして適当な漫画喫茶を見つけると、ふらりと立ち寄った。いろいろ便利なこの場所。シャワー、トイレ、ネット環境。当面の目途を立てるため、純はその漫画喫茶で夜を明かすことにしたのだ。
「後のことなんて知るか。俺は夢から覚めたんだ」
純は自分に強く言い聞かすように数度呟くと、スマホの電源をオフにした。まぶしい日差しには日傘を、臭い物に蓋をしよう。そう、俺は自由なんだ。平凡なんだ。純はぼそりと独り言をつぶやく。心残りがあるはずなのに、見ないふり。純は気分転換にコミックランキング上位の本を適当に見繕うと、乱読した。巻数やタイトルはバラバラ。内容も頭に入ってこない。気分転換にドリンクバーのメロンソーダも、普段は美味しいはずなのに、今日に限って美味しくなかった。夏休み終盤になってなお宿題をやっていなくて焦る子供の様に、落ち着かない。罪悪感、後ろ髪を誰かに引かれている様な嫌な気分に陥ったが、解放された安堵感の方が勝ったのか純はこくりこくりと眠りに落ちていった。クッション性の高いレザー製のリクライニングシートに背中を預け、夢を見る。
テレビやDVDであの人を応援していたころの、楽しかった時の夢を。
――本当にそれは、楽しかったの?
「あー、んっ」
軽い咳払いと共に、純は自分の喉を軽く手で押さえた。口を開けて寝ていたからだろう、時刻は長針と短針がキスをして間もない。喉が痛い、もうこんな時間なのか。何も調べられなかったな、純は自分が何しにここへ来たのだろう、本来の目的を忘れてるじゃないかと苦笑した。とりあえずレジにて歯磨きセットを購入するとトイレにて歯磨き、軽くうがいを済ませることにした。幸いトイレは混んでなかったため、気にすることなく洗面台を使用することが出来た。
歯磨きを終えてトイレから出ると、純は女性にぶつかりそうになった。きゃっ、と女性らしい声を出してバランスを崩す彼女を、純は危ないと彼女の腕を引っ張り自身の方へ引き寄せる。その際純は反対の手で彼女の頭を抑え、抱きしめる形をとってしまった。
彼女もまた、転びそうになったためか純の体、腰に腕を回してバランスを保つ。一瞬恋人のような状態になった二人。まず初めに手を離したのは純だった。「ごめんなさい、大丈夫ですか?」と相手を気に掛ける。相手は少しもじもじした様子を見せ、俯いている。やはり恥ずかしかったのだろう。純もやってから自分の行った助け方がまずかったかもしれないと、不安になる。
「だいじょう、ぶです」
消えそうな小さな声で彼女は言った。けれど純は聞き取ることが出来なかった。なので純は「無事でよかった、本当にごめんね」と謝罪して部屋に戻ることにした。




