13 夢散りて
握手会から純の人生は一人の偶像、アイドルにより一転した。美しい、可愛らしい女性。会えることはあれど眺めるのが関の山だったアイドル、さおりん。初めて会った時に抱いた感想は、まぶしい。だった。
初めてハマったアイドルだったさおりんを見た純は、興奮していた。周囲の異様なテンション、乱れ振るうサイリウム。そして笑顔で両手を添えて自身の手を握ってくれる握手会。
純は当時ライブ会場の末席で彼女の歌を聴いていた。そしてそんな遠くで見ていた太陽が、握手会では抱きしめられるくらいすぐそばまで来ているのだ。
無論警備員がいることやマナー上、純が蛮行に出ることはない。しかし純は甘かった。さおりんのアイドル的対応に騙されて、いや、勝手に騙された純は舞い上がり口にチャック、律することを忘れていたのだ。
両親からの金言も忘れ。ライブ後暑くて髪をかき上げていたせいで、純の素顔は誰の目にも、特に沙織にはばっちり映っていた。
――合格。
勇気をもって初めて手に入れた羽で空を飛んだ男は、太陽に近づきすぎて神の琴線に触れてしまった。自分から手を出しておいて、『やめてください』は通用しないだろう。有無を言わせぬ目力を、純は今まさに感じていた。
「はい、オーケー!」
拍手とともに撮影終了を告げる監督らしき人物が、沙織を称賛する。そしてそれに呼応するように周囲の作業員らが拍手する。
「ありがとうございまーす」
それらに対し沙織は雑に礼を言うのではなく、丁寧に感謝の意を示す。改めてお礼と共にマイクの人、カメラマンなど様々な方向を向いてはお辞儀を返していく。そんな彼女に対して好意的な空間が生まれていく。
彼女の周囲に人が集まっていく。「よかったです」「気持ちが凄いこもってました!」「また聞きたいです!」「これは売れますよ!」と彼女を称賛する輪が出来上がった。そんな輪に対し物怖じして混ざれない純とは反対に茜は何の気負いもなく混ざっていく。
「お疲れ様でした、沙織さん」
その手にはいつの間に用意したかわからない、未開封のミネラルウォーターがある。茜はそれを沙織の前で開けて、ストローをさして手渡した。
「ありがとー」
ほんのり汗をかいた沙織は、それを受け取りちゅるちゅると飲む。温いが体に優しい温度の水は、とても飲みやすいものだった。そして沙織に対し、茜は仕事人モードで先ほどの歌唱に対し寸評やアドバイスをする。
良い所8割、直すべき所を2割。
沙織も茜の評価にしっかり耳を傾け、互いに気になる点をぶつけて精査する。より良い映像、音楽を作るため、アイドルとしての矜持を保つため。
それに対しカメラマンやマイク、演出家も混ざりのちょっとした会議が始まった。
そんな光景をただ一人、ぽつんと見ている男がいた。覚悟もなく、ファンとして見に来た自分を恥じている男がいた。
――やっぱり、俺には高根の花だ。
沙織の歌唱、撮影を生で、肌で、オーラを全身で感じた純が、ある思いをぼそりと口にした。疎外感からくる劣等感、プライドを傷つけられたわけではない。ただ自分はやはり、ただのファンなのだと、けしてアイドルと一緒にいられる器ではないと自覚したのだ。
「さよなら」
彼女たちにわからないよう、ゆっくりと出口へ向かう。集中、ゾーン。撮影、仕事モードに入った沙織たちは、不覚にも純の動きを察知できなかった。
――ちょっとだけ、いや、楽しかったです。
生演奏、ちょっとしたMVを見れてよかった。いい思い出が出来ましたと、純は勝手に胸の中で彼女たちと過ごした邯鄲の夢に、幕を下ろした。
帰り際、先ほど出会った太り気味のプロデューサーとすれ違い、一礼する。プロデューサーは茜と一緒にいた男がなんで一人? 迷ったのか? と思いつつも慣れない仕事場、厳しい現場を前に外の空気を吸いたいのだろうと察して「出口ならあっちだよ」と声をかけた。
純はそのアドバイスに対し改めて礼を言い、出口を目指す。道中テレビで見たことのある人が数名通って行ったが、彼の胸にはなにも響かない。衝撃的なことが多すぎたこの二日間、彼の脳は自分を保護するために意識を少し虚ろにした。儚げな姿、うっとうしさを感じる前髪に隠れてはいるが、眉と二重眼が近い、整った顔立ち。よく見れば眼からうっすらと一筋の光が零れる。
見る人が見れば気が付く純の容姿に、また出口を出ようとし、身分証を持っていない純を止める警備の人たちの姿に興味を持ったある女性が、楽しそうに後ろで手を組んで、純に声をかけた。




