12
茜はその言葉の末尾に『夫として』を添えることは出来なかった。
彼女の心中を知るのは彼女のほか、1名のみ。
スタジオでは血で染めたような深紅のドレスを身にまとう歌姫がただ一人、熱唱していた。内容は王子様を見つけたお姫様の歌。王子には許嫁がいた。けれど王子は姫を愛していた。けれどそれは許されぬ愛。血筋で決まった婚約、諦めきれない王子と姫は、くしくも家を捨て逃走する。しかしそれもすぐに失敗。二人はより厳しい監視の下、会えず愛し合えず、身を悶えさせる。悩む姫と、対照的に王子は許嫁に少しずつだが靡いていく。それを知った姫は、ある決意をする。
おおよそアイドルにはふさわしくない歌だった。
――会えない日々を送るなら、愛し会えぬのなら、せめて貴方の血で私を包んでください。
狂った姫の嘆き。
年の功というべきなのだろうか、それとも声優業もやっていたからなのだろうか、さおりんは熱のこもった演技をふんだんに声に乗せる。
茜は無意識に右手の親指を噛んだ。彼女自身の自慢の人、そして恩人であるあの人に茜は今、自身でもわからない泥のような感情が生まれていた。止めようにも彼女だけではそれは止まらない。消せない。雨漏りのごとく漏れ出てくる。
――苦しい? 何が? なぜ?
息苦しそうに胸を抑える茜は、無意識に隣に立つ純のシャツの裾をきゅっと握っていた。
――だめだ、だめだ、だめです。
強く唱えれば唱えるほど、仮面に綻びが生まれる。薄暗いスタジオ。幸い周囲には気づかれていない。今は仕事中。目の前には自慢のアイドルが歌っている。応援しなければ、支えなければ。そう思った矢先、純がぼそりと呟いた。
「やっぱりさおりさん、いえ、さおりんはすごい」
撮影を前に、ステージをじっと見つめる純の言葉に、茜は胸に温かいものがこみ上げる。茜は純を見る。純はファンとして淡路沙織、さおりんの姿をじっと見る。言葉は出さない。発さない。けれど茜は感謝を示すため、また自身もまた淡路沙織に惹かれてこの業界に入った以上、私もまた一人のファンなのだなと、茜は思った。
そう思うと心の泥が、汚れが消えていく。うっすらと心を照らす太陽が出てきた気がする。考えすぎていたのだろうか、茜はこの業界に入ってから生来まじめな気質だと評価されてきた。だからこそ仕事人とはこうあるべき、でなければならないと自身を型にはめて今まで頑張ってきた。
それも正しいのだろう。事実それでこの浮き沈みの激しい荒波の業界を渡ってきたのだから。けれど今だけ、今だけは緩めてもいいのかもしれない。彼女の重く着飾った氷のような鉄仮面に亀裂が入る。
それと同時に、彼女は純のシャツの裾から手をゆっくり放すと、その手は温もりを求めまたゆったりと純の、隣に立つ男の手に添えた。
――アッタカイ。
茜は自分の体温と純の体温が混ざった、包み込まれるような感触を味わった。そして感謝する。出会えたことに。会ったばかりの人に、こうも自身が心を許すなんてと苦笑する。胸の裡で苦笑する。けれどこの人は、沙織さんが見染めた男。悪い人ではないのだろうと、自身を納得させる。
隣を見上げれば、彼が私を見ている。少し驚いた様子で、それが子供のようで、また嫌な顔をしていないことや、手を離すこと、拒むことをしない彼こと純を少し愛しく感じてしまう。そのせいだろうか、どうも顔が緩み切っているのではないかと茜は自分に質問を投げかけた。答えはいらない。
純は初めて見せられた茜の表情に戸惑いつつ、冷たい茜の手に意識が行く。寒かったのから手を握ったのだろうか、いや、違う。違うのか? それともまたからかっているだけなのだろうか、茜の意図は酌みとれない。しかし嫌ではない、もし寒かったから手を握ってきたのであれば、振り払うのは失礼にあたる。
だからこそ純はステージが終盤に差し掛かっていることからステージの方へ顔を向けた。茜も最後の決めポーズ、画面越しのファンを指さす仕草。それは探や沙織の舞台を見る、応援するべく目を向けた。
目が合った。
少女のように可愛らしく、それでいて艶のある声を出し歌う舞姫と。
純と茜、二人に向けられた愛くるしい大きな瞳が、その時の二人にはまるで神話の女神の眼の様にまがまがしく見えた。
愛くるしいカールのかかったふわふわヘアーが、のたりと動く蟒蛇に見えた。
笑うと見える彼女のチャームポイントである八重歯が、男の生き血をすする牙に見えた。
途端に茜の表情が凍り付く。慌てて純の手を離し、柔らかかった表情は氷漬けにされたように固くなり、仕事モード、鉄面皮に戻っていく。夏を迎えることは許されないと、彼女は呪いをかけられる。
それは純も同様で、まだ見られただけだというのに、体の自由が利かなかった。調子に乗っていたわけではない。と、純は思った。それと同時に一人暮らしをする前に、家族で過ごしていた時に父が良く呟いていたある言葉を思い出す。
「純、お前は優しい。だからこそ女には気をつけろよ、女、わかるか? 女はな、しとやかに見えても立派なくノ一だ。こえーぞ?」
その直後に父が母に「何変なことを言っているんだ」とスリッパで叩かれていたのを、純は今思い出した。酔っぱらった父が時折呟いた言葉。
「女は惚れた男が隙を見せれば迫ってくる。父ちゃんもそれでやられた口でな」
そのあと何か言っていた気がするが、母が酔っぱらいの妄言は気にするなと言って話を遮り、父を寝室まで運んでいたのを思い出す。けれどそんな母の口から出た数少ないアドバイス。
「髪を伸ばしなさい、野暮ったく、ね。そうすれば最低限、あなたは守られるわ」
純は当時何を言っているかわからなかった、今もわからない。しかしこれを守って大学生活を送っていた純である。理由は簡単、楽だから。夏に蒸し暑いのが難点であるが。
ただし純が今になり、昨日からうすうす気づいたことがあった。それは父のアドバイス。
「女は怖いぞ」




