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。
……よ
…ましたよ
「んあっ……」
肩をゆすられ純は目を覚ます。助手席での睡眠、車の不規則で小さな揺れがゆりかごの様に心地よい。そんな夢心地から目を覚ませるのは白馬に乗った王子様か、はたして……。
「つきましたよ。純さん」
ドアップ、あと数センチでキスできる距離。ミントだろうか、さわやかな吐息があたる距離。茜はポケットからレース状のハンカチを取り出し、純の口元の少したれたよだれを拭く。
「ち、近いですよ」
恥ずかしそうに腕で顔を隠すも、母親の様に茜は気にしたそぶりを見せない。そうして息子の顔が綺麗になったというように、少々満足そうに茜は純に微笑んだ。笑顔を向けられて嫌な人間はいないといってもいい。いても極少数だろう。純は当然前者であるため、茜の笑顔になにか恥ずかしさを持つと同時に母性だろうか、ぬくもりを感じている。
「仕事場ですよね、さっさと行きましょう」
改めて車から降りてから気が付く。屋内駐車場、どこかのビルの一角であろうか。
「こちらです」
大学の時と同様茜が道案内をし、純がついていく。エレベーターを利用し、いくつもの扉のある道を通って着いた先にあるフロア。同中純は薄暗い駐車場と違い、明るいフロア、社内なんだなと思った。
更に道行く人にあいさつを告げる茜の物腰は柔らかく、相手からの反応も好印象であることから茜がいい人なんだろうと、再確認する。しかし困ったこともあり、
「あれ、茜ちゃん新人の子?」
茜に対する質問の内容からおそらく業界人だろう。40を超えている年齢であろう、自制心のなさそうな太め体系の男性はなれなれしく茜に近づき、茜の肩に手を回す。一瞬そのチャラ男のような仕草、それに反し太った醜い姿が純に嫌悪感を抱かせる。
茜は嫌という表情を見せる様子もなく、淡々とその業界人に答える。
「職場見学の案内中ですので、失礼します」
鉄面皮の口から開かれた言葉は嘘。言葉を発するとともに茜は回された手を柔らかい物腰で解き、一礼する。そして純の手を引き男の下から離れていく。一切相手の言い分を聞く暇を見せない豪胆さに、相手は激怒しないか純は心配する。
けれどいざ蓋を開けてみれば、男は嫌な顔を見せるどころか茜の冷たい反応を受けて嬉しそうに笑っている。純はためらいなく嘘をついてその場の対処に移る茜に驚きと自分にはできない大胆さに対し、畏敬の念を抱いた。
茜の冷たい掌に引かれた純はの着いた先は、土間の様に畳が敷かれた和室と、椅子やテーブルがある洋室が一緒になった部屋だった。純は自分の部屋より広いその楽屋に驚きつつ、複数ある洗面台や全身を映す姿見やドレッサー。
芸能界に今自分は足を踏み入れているんだとと純は自然と興奮を覚える。けして誰でも入れると言うわけではないこの場所には入れたためか、純は初めて都会に出てきた田舎者のようにきょろきょろと周囲を見渡す。
かわいらしいデコレーションされたバッグや、それと反しシックなブランド物のロゴがマークされたバッグ。化粧品ポーチ、男性にとっては化粧品の少々咽るようなにおい。
「って、ここよく見たら、いや見なくても……」
恐る恐る部屋を出て、楽屋の使用者名を確認する。
「さおりん様」
様の違和感を感じながらも純はここに来てはいけなかったような、脳内がアラートを鳴らし始める。
「ダーリン!」
背後からの声にびくりと背筋を伸ばす。その姿は授業中眠りかけているときに指名された時と同様の気分だったと、純は思う。
けれどそんな純の気持ちを、相手は酌んではくれない。関係なしというように、それよりも自身の喜びのほうが大きいというように、純の背中に大きな二つのマシュマロを押し付ける。
「衣装にしわが付きますよ、まったく……」
「いいの、今は衣装チェンジで戻ってきたから」
茜とのやり取り、この声、間違いない。
「さ、さおりさん、ですよね?」
「ぶぶー!」
意外や意外、純の答えは不正解だった。それと同時に背後から回された腕の力が緩んでいく。
「え、じゃあ……」
誰なのかと、純は後ろを振り向いた。ふわふわなロングヘア―を両サイドで結んだツインテールスタイル。不思議の国のアリスのようなファンシーさを醸し出すメルヘンチックな衣装、目元には星のタトゥーシール。小柄な体躯に見合わない、不釣り合いなバスト。
純の好きなアイドル、さおりんがいた。
「さおりさんじゃないですか!」
つっこまずにはいられない。
「あなたの前では一人の妻です、奥さんだよー」
開いた口が塞がらない、言葉が出ない純の横を、沙織は通り過ぎる。向かう先にはファンシーなバッグ。そこから何かを取る仕草を見せ、純を呼ぶ。
「何か渡すものがあるそうですよ」
「な、なんでしょうか」
茜に受け取りに行ったほうが良いと言われ、少々の警戒心を抱きつつ沙織のいる和室に向かう。畳に腰かけた純は沙織が両手で隠すように握った何かを覗き込む。
「今日は来てくれてありがと」
手のひらをゆっくりと開くと、中身は空だった。けれど純は、沙織の言っていたプレゼントが何なのかを理解した。開かれた手のひらはそのまま純の頬に添えるように置かれ、ぷっくらとした、太陽の様に真っ赤なルージュが重なる。
数十秒の、一瞬のようで長いキス。
ゆっくりと離された唇にはとろりと離れたくないというように、一筋の透き通った糸が光る。
「好きだよ、ダーリン」
沙織は嬉しそうに頬を頬紅を塗った様に火照らせる。
「ステージ見に来てね」
「ぜひ」
その言葉は純粋なファンとしてか、それともパートナーとしてか、今の二人にはわからない。ただプリンセスは王子様にただ自分の晴れ姿、舞台を見てほしいと気合を入れる。
服装は少女から大人へ、アイドルさおりんの生着替え。純の目前で沙織は少女から姫へと姿を変える。真っ赤な炎のようなフレアの付いたドレスに身を包みながら、スタジオへと戻っていく。
純はそんな沙織の芸能人として、アイドルとしてのオーラに飲み込まれてしまった。その場で立ち尽くし沙織を見送って、姿が見えなくなってから茜に問う。
「撮影ってどこでしてるんですか?」
「興味が出てきましたか?」
「ええ、そうですね」
それはどういう気持ちで向かうのか、問いかけようとして茜はやめた。行けばわかることだ。ファンとしていくのなら、それはそれで好都合だと、茜は脳内でそろばんを弾く。皮算用にはならないだろうと思い、なったらなったでその時はまた捕らえれば良いと茜は純をちらりと見る。
170近い茜の慎重に対し見劣りしない純の姿。前髪が長く、髪をかき上げないとその容姿は判別がつきにくい。けれど見る人が見ればわかる。現に沙織が見染めたのだから。茜は沙織の幸せを願いつつ、自身の願望を手放してはいない。
「皆が幸せになる方法、難しいですね」
言葉で、脳で、いくら考えても誰かが必ず不幸になる。最小限の被害で食い止める方法を模索せねばと、茜は自身に課題を設ける。それと同時に彼と一緒に歩くこと、ただ一緒に並んで歩くだけのことに、心を弾ませる。
「茜さん?」
彼の呼ぶ声がする。鉄面皮は崩さない。崩すと元に戻らなそうだから。仮面の下をけして見せない、水面を漂う白鳥のごとく、彼女は仕事人モードで彼に接する。そうすることで彼の警戒心も薄くなっていると思ったから。
茜は純の問いかけに答えない。代わりに腕を引き、手をつなぎ案内する。そう、あの人が姫なら私は小人。姫様と王子様を逢瀬に導く道しるべになろうと決めている。
ただしここは現実。夢でも映画でも無い。そう、王子様が無事お姫様と結ばれる保証はないのだ。道中の草木、花畑に気を取られることもあるだろう。できればその期間が長ければ長いほどいい。
あぁ、彼の手の温もり、冷たい鉄面皮を溶かしてしまいそうな彼の興奮。
そしてその熱気を生んだ人が自身の手掛けるアイドルである幸せ、障害であることに彼女はいずれ気が付く。そうでなくても茜は自分のライバルに自身の気持ちを知られている。現にくぎを刺されている。
「愛人」
ぼそりと漏れるは敗北宣言。
はっとなり横を見ると、純には聞かれていないことを知りホッとする。
けれどそれもいいかもしれない。恩人を裏切ることはできない。ならば私が折れればと、茜はシチュエーションを想定する。
「アリですね、いや、無しですね」
そんな都合のいい現実はあり得ない、彼の興味も自分には向いていないと茜は自己判断する。堂々巡りじゃないにせよ、考えすぎはよくない。純も早くさおりんの姿を見たがっている。
スタジオに近づくにつれ、純の手に震えが走る。緊張しているのだろう。邪魔にはならないだろうか、純の不安を推察し、茜は彼の手を強く握り口を開く。
「私のために、沙織さんのためにも見てください、彼女の雄姿を」
咳払いをしてもう一言。
「そして楽しんでください、ファンとして」
茜はその言葉の末尾に『夫として』を添えることは出来なかった。
彼女の心中を知るのは彼女のほか、1名のみ。
ステージで踊り歌う、あの人だけである。




