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「ふふっ」
びくっ
髪の毛をいじっていた事がバレたからか、千夏の笑い声に反応した純の背中に、悪寒が走る。
「あ、いや、その、枝毛を......けしてその、いや、あのですね、下心とかじゃなく」
「無いんですか?」
純の瞳を見つめ、千夏は問いかける。
「そんなに魅力ないですか?」
「あ、いえ、枝毛はあったです、はい、でも」
「あってほしかったなあ」
「え?」
純の言葉を遮った千夏は、さながら少女のように甘えた声を出す。そのまま純の首に手を回し、自身の方へ手繰る。純の髪が彼女の小さくも筋の通った鼻をくすぐるのも関係なく、彼女は純の耳元で彼の名を呼ぶ。薄い吐息が純の耳へと絡みつく。
「ねぇ、純」
ねだるように千夏は言った。
「二人っきりで、こんな美女と絡み合ってるんだよ?」
千夏は獲物を捕らえた蜘蛛のように、すらりと伸びた自慢の脚を純に、絡みつける。
「お、おっしゃる意味が......それに俺......っ」
純の言葉は千夏の細い人差し指に封じられる。唇にあてられた千夏の指、千夏はそれ以上純の言葉は聞きたくないと、はっきり示している。徐々に頬を染ていく千夏は、
「今は、私たちだけしかいないよ」
と純の耳元に甘くささやく。さしものアイドルを彼女に持つ純も、ここまで迫られては顔を紅潮させる。女性経験の少なさが仇となり、心なしか千夏が純の頬を水滴が伝う様に撫でるたびに、純は体をびくりと反応させる。
「ねえ、こっち見て」
千夏は純の両頬を手で触れながら、視線を自分に向けさせる。目を逸らそうとする純を見て、蕩けたような視線でじっと見つめる。恐怖からか、それとも性欲か、千夏から目を離せない純だったが、
「私ってそんなに魅力がない?」
「そ、そんなことは」
一瞬視線を横に逸らす純を見て、千夏が「ねぇ」と声をかける。
純が言葉を紡ごうとした矢先、千夏の表情に変化が現れた。
千夏の瞳から涙が一筋、すぅぅと伝い落ちたのだ。そのまま千夏は「だったら証明して」と純に言うと、千夏は絡めていた腕を離し、純から少し距離をとる。後ろ手に隠された千夏の手のひらは、震えていた。しっとりと汗をかいていたかもしれない。けれどそれを悟られまいと、千夏は目と口を閉じる。流石に草食系と言えど、純は千夏の言葉、行動の意味が読み取れた。だからこそ、躊躇した。
「あの、千夏さん? えと、あの」
セーター越しに触れあう彼女の胸から、鼓動が聞こえる気がした。実際にはその鼓動は純のものだが、今の純はその判断がつかずにいた。折衷案、打開策として純は子供にするような、千夏の頬にキスをしようと覚悟を決める。ごくりと唾を飲んだとき、千夏は反転し、純に背を向ける。
「あはは、そうだよね、無理言ってごめん」
背を向けられた状態で放たれた千夏の謝罪。純からは背を向ける千夏は流れる涙を指で救っているように見えた。声をかけるまもなく、千夏は元気良く純の方を振り向き、「朝御飯まだでしょ? 台所借りるね」と言い残し、エコバッグを拾って玄関から去っていく。
残された純は、千夏の後を追うでもなく、その場で立ち尽くす。心で先程の自分の行為が、判断に内心忸怩たる思いを抱いて。去り際に見せた千夏の行為が、純の心に小さな釘を打つ。
「どうしろっていうんだよ」
純は千夏の姿が見えなくなったのを確認すると、頭を抱えた。
「なんで俺なんだよ……」
誰に言うでもなく純は誰もいない玄関で、問いを投げつける。




