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「この匂い、好きかも」
純の着ているシャツの香りを、千夏はすんすんと嗅いでいる。男性用と言うより、女性向けの柔軟剤の香りがする。太陽の香り、うっすら香るのは、なんだろうか。千夏は確かめるようにマタタビの前の猫のように順にじゃれつきながら、とろけた吐息を漏らす。
「あの、メイク崩れちゃうかも」
純の気遣いに、思わず笑いがこぼれる。仮にも人気女子アナが抱きついているのに、気にする点はそこなのかと。笑みをごまかすために、千夏は返答代わり強く純を抱き締める。
トクントクンと早くなっていく純の鼓動を楽しみつつも、千夏は違和感を覚えた。
「千夏さ、あの、ごめんなさい!」
純は力任せに千夏の両肩をつかみ、体から引き剥がす。千夏が抵抗する様子を見せなかったことから、あっさりとその企ては成功。そして近所迷惑にならないように、慌てて玄関の鍵を施錠。ついでにチェーンもかけた。
これ以上の来客防止のためである。二人きりの世界。獲物を前にした肉食獣を前に、孤立した草食動物に反撃手段は無い。体格は劣っても、胆力は勝っていると、千夏は自覚している。
純の心の天秤を傾けさせるのは造作もない。言葉では否定しても、生理的に男は女に逆らえない。それが女の武器であると言わんばかりに、千夏は純の両手を握る。びくりと反応する純に、言葉はいらない。ただ微笑み、泳いでいる純の瞳をじっと見る。頬を染め、視線が会えば千夏は恥じらうように視線をそらし、純の胸に身を預ける。
自然と純は千夏の体を受け入れてしまい、気づけば千夏の背に腕を回していた。純はしまったと、内心悔やむ。沙織に行っている行為が反射で出てしまったからだ。
「あ、すみません、沙織さんに」
「今はその名前は出さないで」
純の言葉に千夏は声を震わせ、純のシャツの胸元をきゅっとつまむ。
「すこしだけ、このままでいさせて」
辛そうに漏れだした千夏の言葉に、純は黙って背中に片腕を回し、空いた腕を千夏の後頭部へと回した。早朝からの突然の来客、ただならぬ様子の千夏を見て、簡単にそれを見捨てることは純にはできなかった。
純は無言で、千夏の頭に置いた手を眺めるだけである。
ーーあ、枝毛。
手持ちぶさたな純はおもむろに千夏の枝毛を指先でつまんでいた。




