サイン会! サインを書くのは、まさか俺!?
一般人 向坂純「サイン会か」
アイドル さっちゃん「君、これにサインして」
一般人 向坂純「え?」
サイン会
それは、テレビでしか見ることのできない偶像と、凡人の向坂が生で会える唯一の機会だ。
そう、大学生の向坂純は今、生まれて初めて、アイドル握手、サイン会イベントにやってきていた
暑苦しいファン、鼻息の荒いファン、清潔そうなやつ、不潔そうな奴、彼女連れのやつまでいる。そう、サイン会は人種のるつぼのような、異質な空間を成型していた。
「お、応援しています!」
「うふ。ありがとうございます」
「俺、さっちゃんさんの、大ファンなんです!」
「私も~、応援してくれるファンの皆のこと、だいすき~」
舌たらずに発言するさっちゃん
「うぉぉぉおおお!」
その言葉で、周囲のファンは叫び、興奮している。
「こ、これが、握手会」
そんな異様な空気に圧倒された向坂は、ただ呆気にとられるばかりであった。
「はい、次の方~」
「ひゃい!」
無様な返事をしてしまい、周囲に笑われてしまう向坂。
初めての握手会ということもあり、アウェー感を感じていたせいか、ゆでダコのように顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「だめだよ~。苛めたら~、めっ♪」
腰に手をあて、自身の口に人差し指をあてながらポーズをとり、周囲に注意を促すさっちゃん
(な、なんて優しい人なんだ……これが、地上に舞い降りた天使なのか)
目を真っ赤にはらし、充血しながら、向坂はさっちゃんを見つめながら、そう思っていた。
「はい、泣きやんだら握手してくださいね」
警備員にせかされ、向坂はさっちゃんのいるテーブルへと足を運ぶ。
「元気出して! 男の子は元気が一番だぞ!」
「は、はい!」
アイドルの言葉とは、なんとも力強いものか
「はい、握手して笑顔になってね」
真っ白な手を差し出してくる。
手を震わせながら、向坂もその手に触れようと、ゆっくりと手を伸ばす。
「ふふ、初めてなのかな? かわい~」
そんな姿に、さっちゃんは笑顔で、急かすこともなく、嫌がるそぶりも見せない。
「そ、そんな、それを言うなら、さっちゃんさんの方が」
「え~、嬉しいな~」
「そ、そんなに可愛いんだから、モテるでしょ?」
おどおどとした口調で会話をする向坂。
「え~。そんなことないよ~」
「だって、俺だったらさっちゃんさんみたいな人、近くにいたら、結婚したいくらいですよ」
「「ぴくっ」」
向坂の発言に、先ほどまで乱痴気騒ぎだった周囲のファンの動きが止まる
「あいつ、今なんて言った?」
「な、何か言ったか?」
「命知らずな奴……」
「南無三」
「可哀想に、まだ若いのにね」
「ああ、それにけっこう、整った顔してるのにな」
「ああ、俺もあいつの顔、けっこう好きだぜ」
「え!?」
周囲から寄せられる謎の言葉
ざわざわと騒ぎ始めるファン。
彼女連れも、一人身のやつも、アニメTシャツを着ているやつも、皆同様に、呟き、憐れんでいる様子だ。
まるで、コレから向坂が生贄に、人身御供として捧げられるのではないかと言うほどに。
バンッ!
「ひっ!!」
突然の音に、向坂は驚き、身をすくめる。
「さっきの言葉、本当ですか?」
どうやらさっきの音はさっちゃんが原因のようで、机を両手で強く叩きつけたようだった。
「え?」
そんな姿に気押されながらも、向坂は返事をする。
「さっきの言葉、私に言った言葉、嘘じゃないですよね?」
下を向きながら、尚も話し続けるさっちゃん
「え、ええ」
「……」
「さ、さっちゃんさん?」
問いかけるも、返事は無い。
「マネージャー!」
さっきまでのおどけた、とぼけたような声ではなく、キャリアウーマンのようにはきはきとした声でマネージャーを呼ぶさっちゃん。
「ここに」
いつのまにかマネージャーはさっちゃんに、妙に枠の多い紙を渡している。
「君、名前は?」
「え?」
「だから、そこのルックスはまあまあの君、名前は?」
「こ、こうさかです」
「そう、じゃあこれに名前と住所、その他諸々かいてね」
「え、今日はさっちゃんのサイン会じゃ?」
「私の名前なら、この隣に書いてあるでしょ?」
「あ、確かに」
「ほら、ボールペン」
先ほどまでさっちゃんが握っていたサインペンではなく、マネージャーから受け取った黒のボールペンを渡すさっちゃん。
「は、はい」
勢いとは怖い物で、向坂はテレビとは違うさっちゃんの言動に驚き、言われたとおりに空欄に自分の情報を埋めていく。
「印鑑は持ってないよね」
「はい。流石にサイン会じゃ」
「なら、これは私が預かっておくね。ありがと~」
「あ、あの、ところでそれ、何の紙なんですか?」
緊張していたため、枠を埋めることにしか目がいっていなかった向坂は、聞き返す。
「婚約届けですよ」
「え?」
パンツルックの女性マネージャーが、メガネをクイっと上げながら、冷たい口調で答えた。
「や、やだなぁ……冗談でしょ?」
「冗談ではありません。貴方は、ここにいるさっちゃんこと、淡路 沙織様と結婚するのです」
「け、結婚なんて、そんなこと急に」
「結婚を申し込んできたのは、君の方だよね? 向坂君」
横から口を挟んできたのは、何を隠そう、アイドルのさっちゃんだ。
「嬉しいなぁ、君みたいな純真無垢な男の子が、私に求婚してくれるなんて~」
手を頬に当て、惚けながら、空を見て呟くさっちゃん
「い、いや、さっきのはあくまで……」
例え話で。
そう言おうと、向坂が口を開きかけた時
「まさか今さら訂正なんて……しないよね?」
笑顔もなくし、目から光彩を消し、髪を逆立たせながら、向坂の言葉をさっちゃんは遮った。
「あ、あの……」
蛇に睨まれた蛙のごとく、向坂は萎縮する。
「大丈夫、安心して」
恐怖で汗がにじみ出ている向坂に、席を立ったさっちゃんは優しく抱きついた。
それを見て、何故か歓喜するファン、おたくたち。
「君がしらばっくれても、周りの人たちが証言者だぞ」
そう向坂に告げるさっちゃん。
周囲の人達も、みんなさっちゃんの味方をしているようで、「幸せにしてやれよ―!」「よ、色男!」などと持て囃す。
(な、なんで周りの皆は喜ぶんだ!?)
頭がパニックになる向坂。
あたりを見渡すと、周囲の人が、喜び、祝福の声を上げ続けている。
「やったな、さっちゃん!」
「姫、幸せになれよ!」
「やだ、さっちゃん幸せそ~」
「俺たちもあの二人のように仲良く、過ごそうな」
「うん!」
おいそこのカップル、何いちゃついてんだ。
「な、なんでみなさん、怒らないんですか?」
憧れのさっちゃんに抱きつかれ、嬉しくも恐怖する向坂は、なんとか声を絞り出す。
「え?」
「そりゃするだろ」
「姫の婚約なんだからな」
「ひ、姫?」
姫って何だ。向坂は聞き返す。
「え、さっちゃんは俺たちの姫だぞ」
「そうだそうだー」
「わ、わけがわからない」
そんなことを呟くと、なにやらスクリーンが下りてくる。
「説明しましょう」
またも インテリそうな、さっちゃんのマネージャーが差し棒を携えながら、プレゼンを始め出した。
「あるところに、可愛い可愛いさっちゃんがいました」
「そしてさっちゃんは、その可愛さが目に止まり、あっという間に売れっ子アイドルに」
「だけどさっちゃん、恋愛禁止を言い渡され、若い、輝かしい時期を仕事に費やしてしまいました」
「同級生から来る『結婚しました』と言う悪魔の手紙」
「幸せそうな友人達。私も子供が欲しい。けれど溜まるのはおカネだけ。そう思ったさっちゃんでした」
淡々とスライドを映しながら、マネージャーは説明していく。
敏腕そうに説明するも、どうしてスライドが紙芝居調なのだろうか
「そんなある日、さっちゃんは考えました」
「私だって、幸せになる権利はある」
「そう考えたさっちゃんは、自分の理想の男性を探しに出かけました」
「……見つかりませんでした」
「諦めるのはやっ!」
思わず突っ込んでしまう向坂
「そこ、うるさい!」
指し棒を突きつけながら、注意するマネージャー
「こほん、そこで、我らが姫、さっちゃんの理想の男性の条件を見てみましょう。どん!」
「やだ……恥ずかしいなぁ」
頬を染めながら恥ずかしがるさっちゃん。体に抱きつくのは止め、後ろにいるカップル達のように、向坂の腕に腕をからませている。
(む、胸が)
アイドルさっちゃん。
幼い容姿ながらも、大人びたスタイルを持っている彼女。
グラビアでしか見たことが無い彼女の胸が、今向坂の腕に押し当てられている。
彼女の薄いシャツ越しに伝わるマシュマロのような胸。
本来なら、両手を上げて喜び、自慢するであろう。
けれど、向坂は素直に喜べなかった。
(食われる)
ちょっとでも喜ぶそぶりを見せたら食われる。
それほどまでに、さっちゃんの目は、向坂には恐ろしく映っていた。
さっちゃんのいる右腕の方をちらりとみると、さっちゃんは笑顔で向坂を見つめている。傍から見れば、仲の良いカップルだ。
けれど、さっちゃんは向坂を見つめながら、時折自身の唇を舌舐めずりしていた。その舌が、『狙った獲物は逃がさない』
そう呟いているように、向坂は感じていた。
(ちょっとでも喜べば、絶対、食われる)
そう向坂は確信した。