40男の拘り
今更ながら、このお話は過去と現在の切り替わりで構成されます。
各話毎もしくは数話毎で時間軸が動きます。そして最終的に現在進行形に持っていけたら、と考えています。
当面、場面展開が著しいとは思いますが、大丈夫な方はお付き合いください。
「あら、いらっしゃいませ」
行きつけの喫茶店の扉を開けると昔ながらの鈴が鳴る。その音色に素早く返ってきた言葉に、瞬間的に癒しを感じた。
何の変哲もない、在り来たりな挨拶。そんなものにさえ、心が踊るとは。
「重症だな…」
聞こえない程度に呟き、最近気に入っている窓際の席に落ち着く。間もなく見慣れた微笑みが私の網膜を占領した。
内心を悟られないように、軽く口角を引き結んで嫌味なく笑みを返す。それから開いて手渡される冷たいお絞りを、わざと恭しく受け取ってみせた。
「何それ。馬鹿にしてるでしょ」
クスクスと小声で笑いながら、恨めしそうに睨んでくる彼女を宥めつつ、心のうちは見せないようにして。
それでも何か勘繰られないかと冷や冷やしながら、愛想笑いでその場を誤魔化す。若干の罪悪感を払拭するように、さり気なく。
「いつもので、良い?」
「うん、いつもので」
こんな必要最低限のやりとりは、いつからだったか。記憶から漏れる程度には繰り返されてきた。ただ、そうはいっても週に一回程度が一年間続いているだけなので、熟年夫婦のツーカー程ではない。
しかしながら、実際には付き合ったりとか所帯を構えている訳でもない二人がするやり取りとしては、ある域は超えているのかも知れないが。
端から見たらどう映るかは別として、言われるまでもなく自身としては嬉しいというか幸せというか。上手く言葉では言い表せないのだが、将来彼女と、叶うものなら永久にこんなやり取りをしたいものだと思って止まない。
「じゃあ、少しだけ待っててね?」
相変わらずの微笑みを残して、パントリーの奥に姿を消した彼女。キッチンにオーダーを伝える声が小さく耳に届いてくる。
その間に少しでもこちらを気にしてくれないかと、淡い期待を抱いたのだが。そう都合良く事が運べば苦労はないのだ。
まあ、可憐な彼女がこんな40男の相手を好んでする道理も無いといえば無い。その辺りはいい加減に分別を付けなければ、とは思うのだが。
「無理だろ」
誰に言うでもなく、溜め息と合わせて本音を零す私。刹那。
「何が無理なの?」
心臓が破裂するのではと思うぐらいの衝撃的な声掛け。心の準備などする間は無かったから大変だ。文字通り、全身で驚きを体現する私は彼女の瞳にどう映ったであろう。
まだ治まらない鼓動の喧しさを抑えつつ、そっと声のした方へと身を向けて主を見る。
「ねえ、何が無理なの?」
いたずらっぽい聞き方が、こちらの焦りを増幅させる。が、悟られるのはまだ困る。大体、気持ちの整理すら出来ていないのだ。
誤魔化そう。でもどうやって…?
そうこう考えを巡らせるうちに、嫌な汗が滲んでくる。やばい。何か良い言い訳は無いかと更に考えるのだが、何も見出せない。まともに彼女の顔も見れない。
ただ、だからといって、何も返さないでは失礼だ。
「いや、仕事の件で。書類の納期が遅れててね。急かされてるんだけど全然進まなくてさ。でも上司から今日中にって言われてて…」
「…? そうなんだ…」
ふーんと頷きつつ、それでも釈然としてないふうで彼女はやや不満気な視線で刺してくる。その表情がまた可愛らしくて死にそうに愛おしい。
もう、これだけで死ねる。いや、死にたくは無いが。でも死ねる。
そんな思いで、焦りなど消えてはゆくのだが。
「ま、良いけど…」
相変わらずプンスカした感は消えない。ただ、もしかしたらそんな演出をしているのかも知れない。
彼女も一応レディーだ。男の前では可愛くいたいのだろう。個人的には、そんなことをしなくても十二分に可愛いのだが。
「はい、お待たせ」
ちょっぴり頬を膨らませた顔で彼女がテーブルに置いたのは、いつも私が頼むランチセット。初めてこの店に来た際に頼んだものと実は同じだったりするが。
そればかりかこの一年というもの、これ以外頼んだ試しはない。もう一つ付け加えると、毎週同じ曜日にしか来店しなかったりもする。
そう、初めて来店した曜日を、何故か頑なに拘って。
それが、若干の歪みを帯びた、私から彼女へのメッセージだと気づいたのは随分前。
この拘り、彼女は気づいているのだろうか?
願わくは、今はまだ気づかないで欲しい。そんな思いで彼女にありがとうと笑顔で応えた。