明日香の告白
放課後。学校から帰る途中、牛丼屋の前で愛歌が立ち止まると、思い出したようにお腹が鳴り、愛歌が明日香を見た。
「日比谷」
「……食べたいんだね?」
「よくわかったな。これぞ、愛し合っている者同士にしかできぬ芸当。日比谷と私は心と心で繋がっている、ということか。何人たりとも我らの仲を裂くことなど不可能。おしどり夫婦と呼ばれる日はそう遠くないな、ふ」
「いや、誰だって来ヶ崎さんの目を見ればわかると思うよ」
愛歌の血走った目が語っていた。早く何か食わせろ、さもなければお前を食うぞ、と。
「あ、そういえばさ。今朝、ここで出会ったんだ」
「ん、何の話だ? 今私は牛丼で頭がいっぱいなのだが。うむ、新発売か。なんと心躍るうたい文句だ。口の中で弾ける肉汁とな。よだれが止まらんわ、ふははは!」
新メニューのイラストが印刷されたのぼりを見たまま、愛歌は背中で答える。
「来ヶ崎大牙って人……もしかして、来ヶ崎さんのお兄さん?」
来ヶ崎大牙。その名前を聞いた途端、愛歌は硬直したまま動かなくなった。
「すっごく強かったよ? 不良にからまれたぼくを、助けてくれたんだ」
「あの男はそんな優しい男ではない。日比谷は、だまされているのだ。うむ、何か悪い物で食ったのだろう。ダメだぞ、賞味期限が二週間も過ぎた肉を食っては。牛乳も同様だ。腹をくだして三日三晩寝込むことになる」
振り向かず、淡々と答える愛歌。
「え? それ来ヶ崎さんじゃ……とにかくさ。明日のお誕生日、お兄さんも来てもらおうよ。やっぱり、家族がいたほうが来ヶ崎さんも――」
「くどい。もう二度とあの男の話を私の前でするな。それより、日比谷。帰ったらすぐにでも鍛錬を始めるぞ」
愛歌は振り返ると、明日香の肩を勢いよくつかんだ。
「痛いよ、急にどうしちゃったの? 来ヶ崎さんらしくないよ」
「私は私だ。いつも通りの来ヶ崎愛歌は、ここにいる」
いつも通りの愛歌は、そこにいなかった。冷たい瞳を宿し、唇をかみ締め、明日香を見下ろしている。
「私は、お前にも来ヶ崎流古武術を極めてもらいたい。来ヶ崎の婿として、父上に誇れる夫として、父上に負けないような男になって欲しいのだ。今のお前では、父上には遠く及ばん。だから、厳しい鍛錬をお前に課す。帰ったらまず、正拳突きを千回だ。今日は初日だからな、少し軽めにしておこう。それから――」
「ちょ、ちょっと。いきなりそんなの無理だよ! それに、お夕飯の準備もあるし、今日スーパーで卵の特売なんだよ!? ワンパック50円だよ! 早く行かないと、売り切れちゃう。今日のメニューはオムライスなんだもん」
「そんなことはどうでもいい!! お前には、鍛錬が必要なのだ。でなければ、父上を越える男になることなど不可能! 来ヶ崎の家は――」
「もう! さっきからそればっかり! 来ヶ崎さんはそんなにお家のことが大切なの!?」
「当然だ。私はその為に生きてきたのだからな。父上との約束を一刻も早く果たすため、お前を手に入れる。今はそれしか頭にない」
「……来ヶ崎さんは……そっか。ぼく、ようやくわかった気がする。来ヶ崎さんは、ぼくじゃなくて、お父さんの為にここにいるんだね」
「む?」
「ねえ? 来ヶ崎さんは……ぼくのことが好きなの?」
交差する明日香と愛歌の視線。
「それは、当然だ。私は日比谷を愛している。この世界の……誰よりも」
「ぼくは……来ヶ崎さんのこと、好きだよ。たぶん、初めて出会ったあの日から」
「な、なに!? それは……まことか!? では、すぐに祝言をあげようぞ! これで……父上との約束が果たせる。十六歳になるまでに、婿を迎え入れる約束が、ついに!」
「でも、来ヶ崎さんは本当にぼくのこと、好きなの? 違うよね。来ヶ崎さんは、お父さんとの約束を果たしたいだけなんじゃない?」
愛歌は明日香に体を貫かれた。今までに見せたことのない、明日香の強い意志を帯びた視線によって。
「な、何を言っている。私は日比谷のことを、愛しているぞ! さあ、そうとわかればさっそく鍛錬だ。覚悟するがいい、日比谷。お前を父上に負けない立派な男にしてみせようぞ」
「またそれ? ぼくは、来ヶ崎さんのお父さんじゃないよ。ぼくは、来ヶ崎さんのお父さんにはなれない」
「何を言っている。鍛錬を積めばよいだけのこと。さすればお前も父上のように立派な――」
「いい加減にして! ぼくもお母さんを小さい頃に亡くしたから、わかる。病室のベッドの上で約束したんだ。麗夢ちゃんを大切にするって。それは今も変わらないし、ずっと変わらない。だから、わかる。来ヶ崎さんは、お父さんとの約束を守りたいだけだ。本当は、相手はぼくじゃなくても、いいんじゃない?」
「そ、そんなことは……私は……お前を、愛して……」
「ぼくのどこを好きになったの?」
「それは――」
愛歌は押し黙った。車が何台も二人の前を通り過ぎ、騒音が駐車場にうるさいくらい響くが、沈黙がそれを圧倒的な存在感で押しのける。
「……そっか。言えないんだね。来ヶ崎さん、ぼくは――」
「私は……父上の願いを……」
次第にうつむいていく愛歌の顔。傾きかけた太陽が地平線に消え、光が少しづつ失われるように、愛歌の顔からどんどん生気が消え失せていく。
「日比谷……すまぬ。私は……」
「あ、待って!」
それは、初めて見た顔だった。
愛歌は駆け出した。信じられないようなスピードで、あっという間に住宅街の中へ消えて行った。
「来ヶ崎さん……」
愛歌が立っていた場所には、悲しみの雫が数滴日の光を受けて輝いていた。




