明日香のお買い物
「さて、邪魔もいなくなったところで、日比谷よ。ちと遅いが昼飯にせんか? ケルベロスの二人と戦って、食べ損ねてしまっていたからな」
「あ、そうだね。ナイトくんには悪いけど……来ヶ崎さんに食べてもらおうかな」
明日香はリビングへ移動すると、弁当をレンジで温め、テーブルに着いた愛歌の前に出した。
愛歌はさっそく箸を手に取り、明日香お手製弁当に襲い掛かる。
彼女の食欲の旺盛さを表すように、弁当箱の上を箸が乱舞した。一瞬で弁当箱から食べ物がなくなり、愛歌のお腹へと移動し、食事が終了。
「うむ。うまい。空腹は最大の調味料だな。いや、日比谷が真心を込めて作った弁当だ。空腹など、関係ないか、フ」
愛歌は幸せをめいっぱいデコレーションしたような笑顔で、何度も満足げに頷き、箸をテーブルの上に置くと、つまようじを取った。
明日香は愛歌の笑顔から、幸せをおすそわけしてもらったように、心があったかくなる。
「あは。来ヶ崎さんの笑顔を見ると、作ったかいがあるって思うよ。……本当はナイトくんの分だったけどね……。あの。ところで、本気なの? 家で……その、寝泊り、するの?」
「無論だ。女に二言はない。この来ヶ崎愛歌。逃げも隠れもせんぞ」
愛歌はごはんつぶをほっぺたにくっ付けたまま、クールに笑った。
「でも……親御さん、心配するんじゃない?」
「母上からは、修行してまいれと言われている。望むものを手に入れるまでは、帰ることを禁じられているのだ。気にすることはない」
「そ、そうなんだ」
「ああ、忘れるところだった。小額だが、生活費も渡されているぞ。世話になるのだ、ぜひ用立ててくれ」
愛歌は振り袖の胸元に手を突っ込むと、分厚い封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
明日香はそれを手に取り、おそるおそる中身を確認する。
「一、十、百、千、万、十万……ひゃ!?」
そして、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「うむ。百万入っている。……足りぬか?」
「う、ううん! こんな大金、受け取れないよ!」
明日香は封筒を愛歌に向けて押し出した。
「これはせめてもの気持ちなのだ。迷惑をかけるとは思うが、私をここに置いてくれ。頼む……!」
愛歌は立ち上がると、床に三つ指を着いて額をこすりつけた。
「わ! やめてよ、そんな! そんな風に頼み込まれたら……でも――」
「私はお前がいいと言うまで、ここから一歩も動くつもりはない」
「うーん。わかったよ。そこまで言われたら、断れないし……。とりあえず、当分ぼくの家に泊まっていってくれて構わないけど……」
愛歌の気迫に圧され、明日香はしぶしぶ承諾した。
「そうか! これから一つ屋根の下で日比谷と暮らせるのだな!? 日比谷、愛しているぞ!」
「わ!? ちょっと、来ヶ崎さん!」
愛歌は顔を上げると、明日香に抱きついた。が、勢いが余って、そのまま明日香をリビングの床に押し倒してしまう。
「く、来ヶ崎さん……その、ど、どいてくれない? 苦しいよ」
静かに時を刻む時計の音と、少年と少女の命を刻む二つの鼓動。その二つが、リビングを支配した。
振り袖とカッターシャツがこすれ合い、明日香に愛歌の体重がのしかかる。
「日比谷、限界……だ。抑えられん。……食べたい……お、お前の……」
愛歌の視線が、明日香の潤んだ瞳から、胸へ、お腹へ、さらに下へ移動する。
「え? あの、来ヶ崎、さん?」
「私の本能が求めている。頼む……って……くれ」
ぐぎゅるるるる!!
「お前の作った飯が食いたい! ……日比谷。夕食を……早く、頼む」
「ええ? ご、ごはんのことだったの?」
「あ、ああ、そうだ。何だと思ったのだ?」
「ぼく、てっきり……。ううん、そんなことより! 今、食べたばっかりじゃない?」
「あれでは足りん。すぐにでも補給が必要だ」
「もう。来ヶ崎さんてば、ほんと食いしん坊さんだね。わかった。じゃあ、晩ご飯のお買い物に行ってくるね」
明日香は愛歌を体から離すと立ち上がり、財布をポケットに入れた。
「買い物、か。日比谷、私も行こう。荷物持ちくらいなら役に立てる」
「え、そんな……女の子に荷物持ちさせるなんて……ダメだよ」
「世話になるのだ。私のことなど構わずこき使ってくれ。力仕事ならばドンと来い」
愛歌は胸を張って、ドンと叩いた。
「じゃあ……ちょっと頼んじゃおうかな」
「うむ。任せるがいい」
明日香と愛歌は家を出ると、最寄りのスーパーへ向った。
買い物カゴを手に取ると、明日香は真っ直ぐ野菜売り場でニンジンを手に取りカゴに入れる。
「今日は、カレーにしようかな? あ、来ヶ崎さんは辛いの苦手? 甘口にしてもいいけど」
「いや、私は大丈夫だ。むしろ、辛いものは望むところ。甘口だと? この来ヶ崎愛歌をナメてもらっては困るな。いくらでも辛くするがよかろう。その勝負、受けてたってやるぞ」
「いや、別にナメていないけど……」
明日香はじゃがいもとたまねぎをカゴに入れて、お肉コーナーに移動した。
「日比谷! この肉、うまそうだぞ! いい感じに霜が降られている……こ、これが食べたい! いいだろう? なあ?」
愛歌は瞳を輝かせ、明日香の袖を子供のようにぐいぐい引っ張った。
「ちょ、ちょっと。来ヶ崎さん! だめだよ。カレーに入れるお肉なんだから。こっちのお肉だよ。それ、ステーキ用だし」
「なんだと! 私は認めんぞ! この肉がいい!」
「ダメ。こっちのお肉のほうがカレーに合うんだから」
「お前がいいと言うまで、私はここを一歩も動くつもりはない」
明日香が小さな子をなだめるように、優しく言うと、愛歌はダダをこねてその場に座り込んだ。道行く人々の視線が針のように明日香の全身に突き刺さった。
「もう、ぼく、行くからね? 知らないよ?」
「……ケチ」
明日香は、指をくわえて物欲しそうに、黒毛和牛百グラム千三百円のステーキ肉をみつめる愛歌を残し、レジに向った。
「ワガママ言う子は知りません。スーパーの子にでもなりなさい」
「ひ、日比谷! 私を置いていくな! カレー用でガマンするとしよう。だから、私を見捨てないでくれ!」
「あは。冗談だよ。さ、レジに行って精算すませちゃおうね」
「日比谷。交渉なら任せておけ。私の話術で値切らせて値切らせて、日比谷の支出を抑えてやろう」
今度はレジで精算をすませようとした明日香に待ったをかけ、愛歌が横から割り込んできた。そして、手裏剣を取り出し、パートのおばちゃんの首筋に刃を突きつける。
「女。命が惜しければ、ここにある商品、全てを半額にいたせ。なに、こちらの要求をのんでくれるならば、悪いようにはせん」
「ひ!?」
パートのおばちゃんは青ざめて手をあげた。
明日香もそれを見て青ざめた。
愛歌は勝ち誇ったように笑った。
「わー! く、来ヶ崎さん。何してるの! それ値切りじゃなくて脅迫だよ! あ、お姉さん、ごめんなさい。えっと、ちょっとした、いたずらなんです。ほら、来ヶ崎さんも謝って!」
「む? むう。日比谷がそういうならば……すまなかった」
愛歌はしぶしぶ頭を下げ、明日香も頭を下げた。
そして、なんとか買い物を終えてスーパーを出ると、すっかり日が暮れていた。