明日香の初めて
愛歌は信じられないものを見る目で明日香を見た。
明日香もまた、信じられないものを見る目で愛歌を見ていた。
「よそ見をする、な」
そんな微妙な空気を切り裂いたのは、油揚の拳だった。
「む!?」
「来ヶ崎さん、危ない!」
重量がおよそ0.1トン以上はありそうな巨体から、物騒な物音を立て、繰り出される一撃。
愛歌はそれを両手で受け止める。
「やる、な」
「貴様こそ。この私に両手を使わせるとは、賞賛に値する。誇るがいい。そして、悔やむがいい。狙撃手が接近を許した時点で、お前の敗北はすでに決まっていた」
一瞬だった。油揚の体が宙で一回転して、一秒後には地面にキスをしていた。
「来ヶ崎流古武術奥義の壱。八魔嵐」
「バカ、な」
黒いジャージの巨体は屋上の上で大の字になって、動かなくなる。
その様子に愛歌はクールに笑うと、胸を張り反り返った。そして、揺れた。もちろん胸元が。
「我が来ヶ崎流は、如何なる相手にも負けん。代々の使い手が女性であったことから、小さい力と体で、如何に相手の力を利用し、叩きのめすかが真髄である。油揚とやら、久しぶりにいい運動ができた。御手洗ともども縁があればまた私に向ってくるがいい。その時は再び我が奥義で冥府へ誘ってやろう」
「え、えーと。これって……笑うところ、なのかなあ?」
明日香は御手洗の時と同様、付いていけなかった。
「ぐ、うう……」
「あ!? 来ヶ崎さん、ポテチさん。まだ動いているよ!」
上半身を無理矢理起こし、油揚は苦悶の表情で口を開いた。
「元軍人の『コードネーム・スネーク』、俺以上に、強い、ぞ。お前は、勝てない」
そして、演技派なのか、本当に力尽きたのか、失神してそのまま倒れた。
「フ。面白い。障害は全て取り除く。この来ヶ崎愛歌の歩みを止めることなど、不可能と知れ」
両手をぱんぱんとはたき、スカートを翻すと愛歌は明日香に歩み寄った。
「待たせたな。日比谷。これで余計な邪魔は入らん。しかもここは屋上。愛を囁くにこれほど適した場所はないだろう。私はここでお前を、手に入れる!」
「わ!?」
明日香は抱き寄せられた。
愛歌の射抜くような視線が、明日香の動きを止める。
「さあ、どうだ日比谷。我が来ヶ崎の家に入り、ともに覇道を歩もうではないか」
「は、覇道って……その、ぼくは……」
「何だ? 言ってみろ」
明日香は完熟トマトのように顔を真っ赤にして、うつむいた。
「照れているのか、可愛い奴め」
「あ、あの! ぼく……」
「うむ。申してみろ」
「その……来ヶ崎さんのこと」
「うむ」
「よくわからないから……とりあえず、お友達から、始め……ない?」
「む?」
明日香は恐る恐る言葉を紡ぎだした。
「ぼく……古武術って、何かわからないよ。だいたいぼく達、昨日出会ったばかりだし……結婚なんて、まだ早いと思うし……それに、お父さんと麗夢ちゃんのご飯を作ってあげなきゃいけないし……」
「むう」
「だから、もうちょっと答えは待ってくれないかな? 気持ちって大事だと思うんだ。ぼくは来ヶ崎さんのことをよく知らない。来ヶ崎さんだって、ぼくのことを全部知ってるわけじゃない、だから――」
「わかった。お前の言うことにも一理ある」
「うん、ごめんね」
「では、こうしよう。今日からお前の家で寝食を共にし、私の全てを知ってもらう。全てを見てもらう」
「え?」
「同じ釜の飯を食い、裸の付き合いをする。そして、同じ布団に入り、同じ夢を見るのだ」
「え、え、え?」
「よし、そうと決まれば善は急げ。すぐ家に帰り支度をしてくる。日比谷。待っているがいい。私は必ずいつかお前を手入れる。この来ヶ崎愛歌の伴侶に相応しい男は、お前しかいない」
再び引き寄せられる明日香。
「これはその誓いだ」
一瞬だが、触れた。二つの唇が重なり、二人の鼓動が限りなく近付いた。
「あ……」
「ふむ。これがふぁーすときすというやつか。なんだか照れくさいものだな。この続きは、お前の確かな返事を聞いたときに、またな」
初めて見る光景だった。
余裕の塊のような愛歌が、頬をほんのり赤く染め、うつむいていた。
それは、まぎれもない乙女だった。
「ではな、日比谷。私は早退する。また放課後、お前の家で落ち合おう!」
「あ、来ヶ崎さん!?」
愛歌は真っ赤に染めた頬のまま、屋上を去っていった。




