曖昧価値4
六月二十四日。
今日もまた、雲が太陽を覆い隠す午後。
何層も重なった降り出しそうな曇り空の下、午後から雨がという予報にも関わらず男の手には傘は握られていなかった。
つい数時間前、病院から連絡があった。
妹の病態が悪化している、と。
連絡が届いて病院までの時間、全身の血が凍え生きている心地すらなかった。
それにも関わらず面会時間は数分、挙句の果て命が吐き気を訴え主治医から部屋を追いだされた始末。
壁越しに呻く妹の声に耐えられず病院の外を右往左往していた、そんな自分の不甲斐無さを恨むことしかできない。
外で駆けまわる子供や、母親同士の団らんの笑い声に嫌悪感すら憶えてしまう。
この病院の中の患者がどれだけの病魔に侵されているかは知らないが、そんなの放っておけばいい。 だから、妹を一秒も早く苦しみから逃してくれと何度も、何度も願った。
願い――――いや、喜びの生命へ呪い。
「くそっ…」
誰に訴えるわけでもない独り言。けれどそれは自分へのモノ。
行き場のない不満を押し殺し、他人への観照を恐れしばらく茫然と人気のない道を歩いていた。
一体どれだけ………数分も歩いていないかもしれないが、いつの間にか知らない場所へ出てしまったようだ。
そこは濡れた紫陽花の花が咲く枝垂れ柳の並ぶ細道。
ざわざわと不気味に擦れる葉、滴り落ちる雫を横目に焦燥を抑えながら道なりに歩き続けた。
先には深緑に覆われた鳥居があった。
石造りの鳥居をくぐると苔の茂った階段に圧倒される。それに沿って並ぶ杉の木は薄気味悪さと、どことなく安心感が与えられる異様な雰囲気だった。
漂う雰囲気に身を任せ、まるで導かれているかのように階段登り始めていた。
背後で枝垂れ柳が嘲笑うかのように後押しするのを他所に一段一段を踏みしめる。
百段程の急な階段だったが、澄んだ空気を堪能したせいか不思議と苦もなく神社へとたどり着く。
神社の石畳に沿った先には草臥れた社が佇んでいた。見渡せば滑り台やブランコなどの遊具もあり子供たちが遊び回れるほどの敷地で杉の木に囲まれ趣のある神社だ。
ただ、錆びれた遊具や苔の生い茂った石垣が人からも時間からも忘れられ密かに建っている。まだ慣れ
ないこの街にも、こんな場所があったのは少しだけ嬉しかった。
………あれから三十分も歩いていたらしい。
やることもなくベンチに腰掛け、電話が再び鳴るのを待つことにした。
――――――タン。
短い地面を蹴る音がした。だが、音の方向へ振り向くも誰の姿もない。
また風が嘲笑うように木々を揺らした。
ぐるっと見、視線を戻し―――。
「こんな場所で、黄昏てるの?」
アリスが視界を遮った。
似合わない黒のスーツ姿のアリスは、あははと心底愉快そうに笑う。和の雰囲気には似合わない女はそのまま緑に覆われたブランコを気にもせず腰かけた。
「気配を消して忍び寄るな」
「ごめん、ごめん。だって五日ぶりじゃん? 連絡もないし、私だって悪戯くらいしたくなるよ。ずーーーっと、冥がいない間みどりの愚痴を……」
「福島に行ってたんだ。常盤木に頼まれたモノを取りにな。あいつに聞いてただろ」
「ふーん、私は冥が旅行に行ったって聞いてたもん」
あの女のことだ。暇つぶしにアリスをからかって楽しんでいたのだろう。そんな嘘を間に受けるアリスもアリスだが。
口を尖らせブランコを漕ぎだしたアリスを無視しベンチから立ち上がる。
まだ、病院から連絡はないが、拗ねたアリスはただ疲れる。
愛おしいが、神社を後にすることにした。
■■■
結局アリスに根気負けし共に行動することになってしまった。
連絡のない電話を気にしながら、アリスの横を歩くことが出来なかった。
アリスと共に行動すると、他人の視線が鬱陶しいからだ。
性格は知らないが容姿は他から見れば、道行く人が何人か目に止める彼女、
アリスは常磐木に頼まれ事があり、その途中偶然発見し着いてきたそうだ。
頼まれ事の内容は、今月二日に起きた殺害現場の写真を撮ってこいということだった。
何か写るかもしれないぞ、とふくみ笑いで理由は聞けなかったらしい。
そのおかげで仕事中のアリスに必然的に連れられ公園に向かう事になった。
幸い神社から現場までそう遠くなかった。
徒歩で二十分程離れた公園は、殺害現場付近とは思えない騒がしい場所だった。近くに流石に人はいないが車の音や電車の音が延々と鳴り響いている。
警察の姿はない。現場はまだ先でそれに続く道には黄色いビニールテープが張り巡らされていた。この様子なら公園に続く道、全て塞がれているだろう。
それを目の前にし、早く入ろうと軽々しくアリスはテープを早々と潜る。
彼女にとって、このビニールテープはただの通せんぼする意地悪なテープとしか認識していないのだろう。テープ越しで間違っているのは自分だと疑わせるほど無垢な顔で首をかしげる。
もう考えるのも諦め、溜息を零し後に続いた。
道なりに進むと例の公園の入口が見えた。
またテープで厳重に封鎖された公園だが、アリスはまた潜っている。
「うわ、綺麗だね!」
公園は、頭の大きな瓢箪型の敷地だった。頭の方の敷地は街をイメージとし造られたらしい。中央には噴水と朱色の花壇に色とりどりの花が敷き詰められ動物の遊具があり一般的にはこちらだけが子供達の遊び場として扱われていた。
二つ目は目的の殺人現場。遊具も無く、木々が散乱するその場所は街とは別に森を意識した場所となっていた。昔は頻繁に手入され、街中でも『自然を』をテーマとしていたが時が経つにつれ草木が伸び放題となり誰も踏みいらない場所となっていった。
肝心のアリスは花壇の花に興味を持ったのか、インスタントカメラでそれを無我夢中で撮っている。また、無駄なことをと常磐木に叱られるのだろう。
このままでは当初の目的を忘れてしまうので、奥の草木が生い茂る草むらに向かうことにした。
(…)
公園の中からは草木で死角となっていたが、その先は地獄のようだ。
雨が降る日が続いたにも関わらず黒く紅く染まった芝、木に撒く飛沫、大量の血液が散乱し悪臭を放つこの場所は殺害の惨劇を物語っている。
ここで殺人があった日の時、この場所は常識から隔離された非常識の場となっていた。もう、この場所に救いはない。
見れば光を遮断する木の葉にまで血が付着している。
非常識極まりないここに無意識に歯を噛みしめていた。
「なんて、汚い」
もう空気にも触れていたくない。
ざわめく茂み、かすかに吹き抜ける生ぬるい風を辿り踵を返した。
振り向き際には小学生ほどの子供が立っていた。
――――瞬間。意識に霧がかった。
ガクン、と片膝が折れた。全身の神経に直接縫い針を刺したかのような鋭い痛みが足から頭を駆け巡る。
頭痛に堪えながら額に手を当て、子供を片目で睨む。
それは白装束の衣を纏い外見では性別はわからない。俯いたまま、幽霊のような長い髪の隙間から覗く黄色い眼差しで恨めしそうにじっと眺めている。
金色にも似た澄んだ瞳は幼児の眼差しと、恐怖に似た危険を語っていた。
ゆるりと、小さな手を上げ首元に向ける。
動かすことのできない身体に徐々に現れた白いモヤが意思を持った生物のよう旋回する。それはまるで、獲物を狙う獣のようで滑稽だった。
―――しかし、モヤが身体に接触をした時だ。人魂にも似たモヤは爆風で弾けたように消えていった。
繋がる生ぬるい空気が払い同時に身体の自由が戻る。
全身に流れた痛覚すらも、嘘のように消えていた。
そして―――もう、子供の姿はない。
■■■
公園を出てから病院から連絡があった。
落ち着くまで面会は控えてくれ、と。期待していた内容とは違う連絡に新域は不快感を隠せずにいた。
「そう辛気臭い顔をするな。ただでさえ、お前は場の雰囲気を悪くするんだ。これ、お前のおかげで私は機嫌がいいのに、私まで気分が悪くなる」
常磐木は五日間の情報をまとめた書類をなびかせ、キイキイと椅子を鳴らしアリスの菓子を口へ運ぶ。アリスは菓子の袋ごと奪われ不満そうに次の袋を開けていた。
「俺はお前のせいで妹の見舞いもせずに福島まで行ったんだ。帰れたと思ったらコレだ。機嫌良い方がどうかしてる」
「怒るなって、見舞いならアリスと遠間君が行ってたんだ。お前自身が見舞いに行ったところで今の状態が治るわけじゃない。それはわかっているだろ」
「―――帰る。今日の分はそれで充分だろ。しばらく休暇をもらうからな」
もういいと常磐木の話を中断させ、荷物をまとめた。
「構わないぞ。この報告書の内容なら一週間はやる。まぁ用があったら連絡するから、連絡があるまでしっかり休め」
ふん、と鼻を鳴らし新域は部屋を出て行った。
その背中をアリスは煩わしそうに見送る。
「やめておけ、お前が傷つくだけだぞ」
「………うん」
項垂れ酷く淋しそうなアリスに常磐木は溜息をついて、見ていた書類から顔を上げた。
「まったく。愛想のない男だよ。お前、あんな男のどこがいいんだ? まぁ、顔も整ってるし着飾ればそこらの女も放っておかないだろうが、あの性格は致命傷だ。顔で選び過ぎるなよ。幸せになれないぞ」
私は経験済みだと言わんばかりにみどりはコーヒーカップに口を付ける。
「あれでも、昔は優しかったんだけどね」
「たった二、三年の過去なんて現在だよ。同じ女としてお前の恋が実る事を願ってるが、たった数年で変わるなんて、あれは難しいぞ」
「みどりが私にアドバイスをくれる時は、その報告書に面白いことでも書いてあるんでしょ?」
「察しがいいね、お前は。ほら、知人から書類を取り寄せたのは正解だったんだ。夢遊病とは盲点だったよ。過去の証言でこの夢遊病に辿り着くとは流石だ。正常な思考回路を持つ人間なら夢遊病とはまず考えもしないだろうに」
「でも、夢遊病なら感染はしないでしょ? 最近でも数件同じような事件が続いてるのにさ。仮に感染する夢遊病としても、今更流行する理由もわからないよ」
「それに関してはわからないが、私は夢遊病ってのに心当たりがある。急で悪いが……アリス、お前には明日、調べに出てもらうぞ」
■■■
六月二十五日。
ビルに囲まれ日の光を拒絶した寝るだけの部屋。
この街に越し常磐木が用意したフローリングの部屋に住まう事となった。部屋は一つではあるが台所も別れ、トイレと洗面所も別。一人で住むには広すぎる箱だ。
だから余計な物を処分し、必要最低限のモノだけを用意させた。
殺風景の暮らしは、自分の為の暮らし。
布団に横になり休もうと瞼を閉じた、それを遮るように部屋の隅にある固定電話が鳴った。けど、電話にはでない。鳴り響く電話を横目に外を見た。
今日もまた、雨。
空は見えないが、きっと黒々とした雲がある。梅雨の時期は昔嫌いだった。
けど今は自分の昔を思い出させる。
電話のコールが止まる。ぴーっと耳障りな音が鳴った。
電話越しでは聞きなれた声が話かける。
「あー聞いてるか? いや、聞いてないだろうな。冥、休暇中すまないがお前の頼んでいたモノが届いたぞ。新域家の宝だか知らないが、こんなもの、事務所に放っておかれると気が狂いそうだ。早く持って帰ってくれ。
それと、アリスからの伝言だ。昨日は帰れなくてゴメン。今日も帰れない、だ。確かに伝えたぞ。じゃ黄昏てないで早く来いよ。あ――ついでに、コーヒーが切れたから、近くのコンビニでもいい、コーヒーを買ってきてくれないか。眠くて堪らない。希望は最近人気の駅前の……店の名前は忘れた。あそこのコーヒーが飲んでみたい」
電話はここで切れた。祭りの後の静けさというのか、不快感が一層に増した。
折角の休暇に常磐木の顔を見るのは辛いが、アレを他人に預けるのは許し難い。
この際、休日でも已むを得ないとスーツの袖に腕を通す。
■■■
「早かったな。よっぽどそれが大事か。まぁいい。出勤早々悪いが、コーヒーを淹れてくれ。それは私が立替えておいたんだ。それくらいはいいだろ」
所長である私を無視し、棚の上にある長い布袋を手に取った。
コンビニの袋を持っているとなると、私の希望は却下されたようだ。
一般的には竹刀袋で螺旋めいた雲模様が施されている。彼は、上機嫌なのか事務所に入るや一直線で竹刀袋を手に取る。
中身も確認せずじーっと布袋を眺め終わると台所にコンビニの袋と持っていった。覗き込んでみれば、どうやらコーヒーを淹れる準備をしている。
なるほど、こいつも義理がたい所はあるらしい。
「アリスに行かせた仕事ってなんだ。前にあいつ一人で行かせるような仕事に行かせるなっていっただろ。お前の弟子だか知らないが、アイツは体力は人並み以下の女だ。お前と同じじゃない、普通なんだ」
コーヒーを私の前に置くと鋭い眼つきで睨んできた。
カップを口に付け私も私で、なんで律儀にこいつに伝言を残したのか呆れてきた。
「失礼な奴だな。私だって立派な女だ。それに猫の手も借りたい状況っていっただろ? まぁ、あいつはお前の思っている以上に強い奴だからな。仮にも私の弟子だぞ、その業績故に私が信頼してきている。ただ調べ物に行ってもらっただけだ、一般施設に向かわせただけで危険にさらされるようなことはない。しかし、あまりアイツを子供扱いするなよ」
私が対処を間違えたのか、ただ私の事が不愉快なのか、外を眺め出した。
こいつは私もわからない。人に冷たく接するが大切にする。それには激しく差がある。
他にも性格だけではない。こいつ自体が謎に包まれている。
疑問を抱えピーっと鳴る音、ファクスが紙を吐きだした。
………内容は絞殺殺人関係。