曖昧価値3
「へぇ、彼女のねぇ。ま、それがくるまで僕らは暇だね。ほら、未夜子ちゃん、お客さんに渡す資料読むの止めて座りなよ。ぼく、見下ろされるの好きじゃないの。ん? いや、ぼくだけじゃないか、みんなそうだろ?」
濃いブラウン色のコートを纏い、無造作にハネる髪を掻きながら男はにたりと笑った。
三十代後半の男の顔には三十年を無にするほど威厳のない眠そうな細目で、缶コーヒーを片手に書類の山済みとされた机に腰掛けていた。狭い事務所は空き缶が所狭しと積み重なり雑誌、新聞が部屋の隅に山済みにされている。
未夜子と呼ばれるキャスケット帽をかぶる女性は小汚い椅子に座ることを躊躇いその場に立っていることにした。
「所長。これって例の記憶のない事件ですよね」
「そーだね。今月に入って絞殺事件と肩を並べて起きている事件だよ。被害は小さいから警察も軽視してるみたいだけど、さすが彼女は目の付け所が違うよネ」
愉快愉快と不器用に手を打って笑う。
ブラインドからこぼれる光、崩れる資料の山の中で心底愉快そうに笑う男の不気味さはどこか警戒心を抱かせる。
未夜子は勤めて長いが、いまだに慣れないでいた。
「……記憶がないってのは気になりますけど事件は放火、万引き、暴行と七件。けどこの七件って全部現行犯で捕まっていますよね? 私にはそこまで重要な事件とは、とても…ほら、最近はここ桐桜町も物騒ですから」
「僕らからすれば、十分記憶のない事件ってのは物騒な事件なんだけどね。けど未夜子ちゃんの歳くらいなら、こんな殺人が横に並んだら霞んじゃうのも無理はないか」
ふくみのある笑みの男を未夜子はむっとした表情を向ける。
それと同時に男は一枚の書類を差し出した。
「実はね、これに似た事件は三年前にもあったんだよ。今のは比較的には軽いけど、三年前のは――――【バラバラ殺人】、【家族殺し】、【無差別殺人】の三件」
どれも捕まってるけどねと、また不気味に笑う。
「僕が前の仕事に就いていた頃、この三件の事件を担当したんだけど、三人みんな気がついたら殺していたって」
「でも所長、これは共通点がありますよね。三人とも警察にお世話になった人。この家族殺しの奴なんて、一度殺人の容疑で捕まってるじゃないですか。証拠不十分で釈放されてますけど、こんな連中の考える言い訳なんてそんなものじゃないですか? またはドラックなどによる一時的な興奮状態に陥ったとか」
未夜子の言葉に不敵に笑う。そして徐ろに立ち上がりコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
背を向けたまま男は未夜子の質問に答える。
「ドラックねぇ…じゃぁさ未夜子ちゃんはさ、バラバラにするくらい恨みを持った人を殺めたらどうする?」
「隠しますね。人の死体を完璧に隠蔽するのはほぼ不可能ですが、けど恨んでいる人間を殺すのに自身の人生を失うのは論外です。ばれないと願い、自分の家の床下でも掘って埋めてしまうと思います」
「未夜子ちゃんは怖いね。けど証拠を隠滅しようとするのは正解。悪意を持った、そして何より自分の行為を自覚した人は特にね。
でも、彼は泣きながら血まみれの服で交番へ駆け込んできた。犯行に使用した鋸を持って私が殺していた、気が付いたらバラバラにしていたってね。他二人だって逃げはしたけど、それまでは自分の行いを改心し社会復帰まで果たしたんだよ。普通じゃないだろ?」
「なら、所長はどう推理してたんですか?」
「うーん……夢遊病の一種がくさいかな。正式名所は睡眠時遊行症だね」
「それって、睡眠時に、無意識で行動するってやつですよね? 発作的に異常行動を起こす精神病。けど、あれは慢性ですよね。三人は、それで病院に?」
「病院に問い合わせたところ特に異常行動を訴え来院してきた事はないらしいけどね。精神鑑定も異常なし。ただ彼、僕にまるで夢の中で殺したようだったって教えてくれたから調べてみたんだ。普段の行動範囲、仕事場まで、電車で四十一分、駅から徒歩四分。時間を調べたところ、仕事が終わるのは午後五時で、出勤時間が午前六時そして犯行時間は午前二時。どうも夢遊病は就寝後一時間から三時間のノンレム睡眠時に発生することが多いらしいからタイミング的には悪くないよね?」
「―――待ってください。この事件の全てが夢遊病なら、精神面の病の夢遊病が感染することなんてありえないですよ。それ以前にこれは最近の事件とは証言が外れています、ここ一カ月の人の証言は『記憶がない』ということですし罪を犯した記憶が消えていて自分が捕まったことの理由すらわからない。これは気付いたらと証言していますね、それは自分の身体が動いていることには自覚があったのでしょうか?」
「そこに喰いつくとは流石未夜子ちゃんだね。そうだよ、三年前の事件、この三件全員気付いたらって証言で記憶も何も意識はあって自分がした行動の一部始終が記憶として残っているんだよ。ここ最近のやつとの違いはココ。ま、僕はただ夢をみていただけで調べたけどそもそも夢遊病って無意識で記憶はないはずなんだ。この時点では夢遊病として成立しない、一般的には寝ぼけているで処理されるのかな。でも三年前より今回の方がより夢遊病『記憶が無い』だよね。何かしら関連性はあるのかもしれないけど、それ以上僕は調べられなかった。今回の事件と三年前の事件が同じかどうか、仮に僕の推理通り夢遊病だとしても医学は専門外なの。特に感染する未知の精神病なんてさ」
何が可笑しいのかケタケタと笑う男。
出来上がった黒々としたコーヒーを二人分注ぎ、眉をひそめる未夜子の前に出し、それと同時に乾いたインターホンの音が部屋に広まった。
「いらっしゃい――――ん、幽霊? 君、面白いネ。でも、それは常盤木君に聞けばいい」
■■■
「お帰りなさい」
菓子を片手にソファーに寝転ぶアリスがひこっと顔を上げた。
乱雑に切った短めの黒髪の女。
日本人らしい小柄な顔に、身体のラインがわかるほどフィットし黒の丈の短いワンピースを普段着としている。女性というより小柄な体格で天真爛漫な雰囲気は少女と言ったほうがしっくりくる。
高校からの付き合いの彼女に誘われ二か月前常磐木に雇ってもらった。
………もらった…正しくは雇われた、か。
「常磐木は?」
「二階。電話してるから近寄らないほうがいいよ。今朝の報道のせいで機嫌悪いし」
「関係ない。あっちが呼びだしたんだ」
「やめといた方がいいって。あ、エンマこっちに大学の関係できてるんだってね。連絡来た?」
エンマとは元彦だ。遠間、トオマという字を読み間違えアリスはエンマと呼んでいる。間違えられた名だが本人もこのあだ名は気に入っているらしいので深く指摘はしないこととした。
「さっきまで一緒にいた。あいつとの飯を断ってまで来たんだ」
「それは災難だったね。じゃ、今度三人でご飯にでも行こ。大橋の近くに隠れ名店があるってさ。エンマが人気あるから行きたいって」
「―――橋浦亭か。私は勧めないぞ。あそこの味は人を選ぶからな」
いつの間にか常磐木がいつもの椅子に座っていた。頬杖し睨み殺すかのように、書類に目を通している。
こんな女でも、流行には関心があるようだ。
「電話終わったの? やっぱりあれ?」
「今朝の殺人事件だよ。捜査の依頼。捜査だけ(・・)の依頼がな」
「捜査だけって、そんなの警察とか探偵の仕事じゃん。うちって表柄は会計事務所だよね公認会計士の資格どころか、みどり以外は簿記の知識も無いのに」
「猫の手も借りたい状況ってやつだそうだ。近頃は、イカれた連中が数を増やしてるからな。私も断ったんだが、依頼じゃなく命令だとさ。知人に連絡をとって現場と殺された側の情報を聞きだしたんだが、怪しい人影を見た人もいなければ、足跡一つ残っていない。殺された男も、犯罪歴はもちろんなし、裕福な家庭も築き社会貢献に励み恨まれるどころか怪しいほど敬われる人間だそうだ。今、動いても結果は同じだろうな」
「死んだ人間にも殺したキチガイにも興味ない。こっちは急用ってのに呼ばれたんだ」
予想を外れた本題から、もう待てないと言葉を発した。証拠の無いと、言いきった犯罪にこれ以上自分が関わる必要はない。
「このところ、これとは別で不可解な事件が続いているのは話しているだろ」
アリスの菓子を奪い、いかにも知っているかのように話すがまったく聞いていない。それ以前に、こいつは現在の仕事以外の話をしないからだ。
だが二か月前の事もあるが、その他の不快な報道に覚えもあった。
「犯罪の記憶がないってやつか」
ここ数日、ニュースを騒がしている問題の一つがこれだ。
放火、窃盗、暴行を行った際、皆口を揃えて犯行時の記憶がないという。迷惑極まりのない犯罪。年齢は二十代前後の男女、精神異常なし、犯罪までに至る人間関係、社会的に不満もあったわけではない一般人が相次いで犯罪を起こしている。 幸い死者も怪我人もなく、世間では軽い犯罪と処理されていたが、常磐木はどこか引っかかるのか先ほどの書類からまったく目を離さないでいる。
「この一週間で三件。警察は若者間で流行っている一種のお遊びだと見ているが、私はどうも…な。報道の通りかもしれないが、記憶が消えるなんてことはそれなりの原因がある筈だ」
顎に手を当て常磐木は顔を曇らせた。
「それを調べろってこと?」
「急で悪いができるだけ早く頼む。私はこれで手が塞がっていてな。お前達にしか頼めないんだ。私用で所員を動かすのは気が引けるんだが、はぁ…独り身は辛いぞ」
本音を零すと同時に手帳を投げ渡す。
「そこの情報屋に話をしてある。用意させた過去の事件の書類を貰ってきてくれないか。そいつなら警察署に閉まってある過去に似た犯罪も調べることも容易い、明日には用意できているだろう。腐れ縁というやつか。ま、変り者だが信頼はできる男さ。遠慮することはない。ただ現在はこの街から離れているから、遠方へ出張となる。あらかた準備はしておいたから、お前の準備ができ次第出てくれ」