1.始まりの朝
……苦しい。
息が出来ない。手を振り、足をばたつかせて、抵抗の意を示すものの、何の状況の改善にもなってはいない。
そもそも自分が今どんな状況に置かれているのかすら完全に把握しているわけではない。ただただ苦しい。その事実が僕を動かしている。
とうとう意識が朦朧としてきた。
……光が、見える。ひかりの向こう側で誰かが手を伸ばしているようだ。
僕は光に向かって手を伸ばした。
目の前に雷が落ちたようなけたたましい目覚まし時計の音で,夢から現実へと覚醒を余儀なくされる。
空はいつものように青い。だが僕にはこの世界は透明にしか見えない。
鏡に映る僕の顔からはすべてを諦めているかの如き雰囲気が感じられた。
◇ ◇ ◇
今日から新しい学期が始まる。
夏はもう終わりを迎えようとしている。
僕の通う高校は周辺で再開発が進み、少子高齢化の波が押し寄せてきているこの時代においては各学年定員500名という、比較的規模の大きな進学校として知られている。
教室に入るといつものように誰かしらから声がかかる。
「おー、運おはよー。久しぶりだなー」
「祐介おはよ」
「天樹君、おはよう」
「おはよう、七瀬さん」
と、とりとめのない挨拶を交わしたつもりが、どうしたことだろう?祐介がいやにつっかかってくる。
「なんだよ運、俺と真白とじゃ随分扱いに差があるんじゃないか?」
なにかと思えばそんなことか。
「そ、そんなこと無いよね?天樹君」
というのは七瀬さん。が、残念なことにそんなことがあるんです。
「全く、なにを当たり前のことを言ってるんだが」
「ほらねっ、祐介君もあんまり変なこと言うと、天樹君に失礼だよ」
……?
どうやら七瀬さんは勘違いしているようだ。面倒ではあるが、決して間違いのないように言っておくか。
「僕がお前と七瀬さんの間に差をつけないはずがないだろう?祐介。
スポーツ一直線のお前と学校のアイドルである七瀬さんの間に差がつかないほうがおかしい。
普通に考えればわかるだろうに、疑問形なんて間違ってるぞ?」
「ちょ、ちょっと、天樹君!それはそれで祐介君に失礼だよ」
「やっぱりな運。お前はそういうやつだと思っていたよ。
まぁ、今日はその正直さに免じて許してやろう
だけど差別はいけないからな」
と、こちらはこちらで厄介だ。どこかの国の偉い人が子供時代に桜の木を切った時にその父親が言ったらしいこととニュアンスの近いことを言っているし。……まあその話も最近、作り話だったらしいって聞いたけど。
大体この程度で差別と呼ぶかどうかがまず疑問だ。祐介は勝手に一人で納得して頷いているから、あえてつっこむことはしないが。
そしてなにより、偉そうでちょっとむかつく。
「祐介君。流石にそれは調子に乗りすぎ……」
流石は七瀬さんだ。的確についている。
「まっこれからは気をつけろよ、運」
「だから祐介君、偉そうだって……」
「はいはいわかったから」
適当に答え、面倒くさいので祐介並びに、それをたしなめる七瀬を放っておいて、ひとまず窓側最後列の自分の席に着くことにした。
今日真っ先に声をかけてきてのは、戸倉祐介。良くも悪くも運動一直線でこの学校、少なくとも同学年ではスポーツの類において右に出る奴はいない……のだが、何故か部活動には所属せず、専ら助っ人として活躍している。本人に理由を聞いたこともあったが、答えようとはしなかったので深く追及はしなかった。
じゃあ高校生の本分であろう勉強の方はどうなのかというと、流石に進学校といわれるだけのことはあって、決して悪い方ではない。寧ろ頭のキレとか勘いう面では良い方だとすら思う。ただ、よく人の話を聞かないうえに、さっきのやり取りでわかるように良く言えばノリが良く、悪く言えば調子に乗りすぎるため、そういう見られ方をすることはまずない。
……そして少々かっこいいためよくモテる。
そしてもう一人が七瀬真白。こちらは祐介とは対照的に勉強一直線といったところだろうか、多少の悔しさを感じるが俗に言う天才……それも超が付くほどの。
その上、噂に過ぎず本人は否定しているものの、以前モデルにスカウトされたこともあるという程かわいいし、穏やかで誰彼分け隔てなく優しい。そのせいで学校のアイドルだとか、学園のマドンナとかいう異名がつけられているが、あながち間違っていないだろう。当の本人がどう思っているかというと……未だ不明。話題に上ったとしてもなるべく話をそらそうとしたらしいから、少なくともあまり肯定的ではないはずだ。
特に祐介は性格に多少の難があることは否めないのだが、二人とも本当にいいやつであることは間違えようがない。彼らから人の輪が絶えたところを僕はあまり見たことがない。
二人ともやや特殊ではあるが、それでもあくまで凄いというレベルであって、別にどこにいたって不思議じゃあない、ただの高校生にすぎない。
そんな相手と交わすごく普通の挨拶。ごく普通の日常風景。……これをすでにただの習慣として処理して、変化の乏しさを嘆くのは僕だけだろうか?
生を受け、この天樹運という名を授かり今まで15年以上の人生を生きてきた中で、一体何時からこんなことを思うようになったのだろう?こんな……そう、まるで人生そのものに悲観しているかのような、ただ惰性で生きることに逃げたように。
自分のことを、出来る限り主観的な見解を切り離した視点から眺めると、頭の方はずば抜けてという程でないにしろまあまあ良い方。祐介と七瀬の間で七瀬より、といったところだろうか。運動に関しては良く見積もって中の上、同学年の平均の僅かに上をいくくらいの、二人に比べればよっぽど普通のどこにでもいそうなただの高校生といったところか。
しかし、そのただの高校生が一般に人生で一番楽しい時期だの、青春だのと言われている今この時期をどこかつまらなく感じてしまうのは何故なんだろうか?
席に着いてだらだらとそんなことを考えていると、唐突に朝のホームルーム開始の鐘の音が聞こえてきた。それとほぼ同時に担任が教室に入ってきた。
「起立」
「礼」
「着席」
ルーム長の掛け声で学校お決まりの挨拶が行われる。
……そういえばルーム長は誰だったかな?一応クラス50人分の顔と名前は一致するようにはなったがのだが、果たして誰だったか?こんなとこからも既に興味のなさを感じられてしまう。
「皆さん、おはようございます」
担任の威勢のいい挨拶が聞こえてくる。
「今日から新学期ということですが、早々に皆さんに伝えておかなければならない、重大なお知らせががあります」
「何ですかー?」
律儀に聞き返すのは何処のどいつかと思ったら、祐介だった。これも一つのノリの良さ、なのだろう。僕みたいな奴はわざわざ聞き返すことなんかしないだろうから。
それにしても、学校でいうところの大事なことなんて、本当に大事であったためしはまずない。
もちろん学生にとっての大事なことは無いでもない。テストの予告だったり、転校生がやって来るというのは良い例だろう。
でもそれが大事だといえるのかというと、決してそうではない。大事というのは学校の統廃合クラスのことだと思う。でも再開発が進んだこの周辺、特に高校では統廃合が起こる可能性はほぼ0だと思う。
それを考慮すればこの話が本当に重大であることは万に一つもないだろう。……こんなことを考えている時点で、僕のこの世界に対する見方がどこか歪んでいる――しいて言うならば世界が無味乾燥なものにしか見えないといったところか――ことは容易にわかるというものだろう。
「えー、実はですね我がクラスに転校生がやって来ました」
それを聞いた途端、
「よっしゃーー!!」
という声とともにクラス中が沸き立った。言うまでもないが僕は除く。これが普通の学生の反応なのだろうが、予想通りの大事であって、大事ではない出来事に僕は半ば落胆の色を隠すことが出来なかった。
もっと大きな変化でなければつまらない。せいぜいその転校生とやらが何か変化をもたらしてくれることを期待するとしよう。期待するだけ無駄だとも思うが。