黒猫と煙工場
リストカットとは、生を実感したいために行うらしい。
例えが飛躍し過ぎ?
でも僕の場合も、そこまで切実ではないにせよ、似たようなことだった。
帰りの電車に乗り、今日一日を振り返ろうと自分の頭の中を覗いた。
記憶は割れたガラスのように断片化されたものばかり。それもゴミの山のようにうず高く積み上がっていた。それらは今日の記憶と限らない。昨日の事かもしれないし、一週間前の事なのかもしれない。
誰かの声が聞こえる。
仕事なんて結局、そんなもの。意味もなく、虚しいことだから仕事なんだよ、と。
確かにそうかもしれない。記憶なんてものはバラバラになっている事こそが正しい姿で、無理やり復元しなくてもいいのだ。
それでも僕はそのピースをひとつひとつ拾い上げる。
何かしら実感したいことがあるのだろう。この期に及んで。
朧げながらに記憶が蘇ってきた。
朝から赤いフリクションペンは僕の指の上をバレリーナのように回り続けた。資料の余白に描いたドラゴンボールは、昼過ぎに七つ全て揃ったけれど神龍シェンロン)は現れてくれなかった。あくびを我慢したくて、椅子に座ったまま上体を逸らすように伸びをした。すると指先が照明のスイッチに触れてしまった。会議室はほのかに暗くなり、同時に空気の色も失われた。周囲からナイフのような視線が飛んでくるのを覚悟し、瞬時に文庫本一冊くらいの言い訳を用意した。でも視線の代わりに僕に向けられたのは、黒い、或いは地肌の見える頭頂部だけだった。
そして、プロジェクトのテーマは『蒼きリボンを、初めて社会を支えていく。』に決まった。
それは偉い人の思想と気分とこだわりと見栄と強欲と妬みと傲慢と色欲と……。
コピーを不可思議に思うことがあるとしても皆、見て見ぬ振りをした。それはそうだ。そんなこと指摘しようものなら、たちまち飛ばされてしまう。
それなら会議なんてしなくていいって思うかもしれない。でも多数の関係者が一堂に会して、その皆が長い時間を共有することに意味がある。と偉い人は考えていた。
とにかく、とんでもなく長い会議の末だった。
車窓から夜の景色を眺めると、立ち並ぶ超高層ビルはキラキラと輝いていた。そこには多くの人が呑み込まれ、エネルギーを吸い上げられた果てに蛍のように自ら発光していた。かつては誰にも見向きもされない原野だったはずなのに、多くの資本が投下され、長い年月を経て今ではすっかり高度資本主義の象徴のようだ。
ため息をつこうと思ったけれど、満員の電車ではそんなことさえ憚られた。その代わりなのか、ポケットからスマートフォンを取り出し、ネットショップで電球を一つ注文した。
日曜の午後、猫のトイレを掃除して、おやつをあげて、水を変えた。それから自分の昼食を食べ終え、コーヒーを淹れているときに、インターフォンが鳴った。
頼んでおいた電球かもしれない。通販会社の巨大な倉庫からいろいろな人を伝って、ここまでやって来たのだ。それも一度不在にしていたから再配達だった。電球ひとつで多くの人を疲弊させていると思うと少し申し訳なく思った。でも僕一人が責任を負うこともない。コーヒーにお湯をつぎ足したかったけれど、再び不在扱いされるとさすがに面倒だったので手を止めた。
インターフォンのモニターに写っていたのは友人のジェイソン・ブラウンだった。
「やあ、やっと会えたな。あがるよ」
玄関ドアを開けると、彼は捜査令状を持った刑事のようにずかずかと部屋に入ってきた。
「お、おい。来るなら来るって――」
「来るなら? 俺は何度も連絡してたんだよ」
「何度もって、メッセージでもくれたっけ?」僕はとぼけた。
「ああ、こっちが嫌になるほど」彼は淹れかけのコーヒーを目ざとく見つけた。「おっ!? ちょうどいい。なんかいい香りがしてたと思ったら」
「それ、まだだよ」
「いや、いいんだ。これくらいで」
「これくらい……」
彼は元プロ野球選手だった。高校生の頃甲子園に出場し大学でもそれなりに実績を残したことで、ドラフト会議でとある球団に指名された。その華々しさに誰もが彼に憧れ、キャリアを期待した。でもプロの世界は甘くなかった。入団早々にちょっとした不注意で膝を痛めてしまったのも不運だった。三年目に戦力外通告をされるとそのまま現役を退き、その後はカーディーラーやら不動産やら通信関連やらの職を転々とした。しかし、勤めた会社を辞めると不安になるのか、その度に僕の家にふらっとやって来た。
「独裁は安定するんだ。悪いことばかりじゃない。平民にとって――」
「独裁? 平民? なんだよ、いきなり」
「全時代独裁論さ」
「は? そんなの聞いたことがない」
「俺が作ったんだ。独裁とはあまり聞こえは良くないが、平民にとってはその方がいいことがある――」
ジェイソンはダイニングテーブルの椅子に腰かけ、タバコに火をつけた。先端に赤い炎がホワッと光る。白い煙を吐き出した。陽だまりのソファで気持ちよさそうに寝ていた黒猫が尻尾を下げて寝室へ行ってしまった。それから、また話が続いた。どことどこが戦争をして、誰が金儲けをして、指導者達は皆無能だといったようなことだ。
僕はあくびをしながら適当に相槌を打った。その間にも彼が持つタバコからは煙が一定の速度でまっすぐに昇った。少しは角度がついてもよさそうなのだが、ただただ真っすぐ、どこまでも垂直に昇り続けた。手が揺れると煙は綺麗な曲線を描いた。それは初恋の女の子の横顔を想い出させるほど優美だった。新たな発見もあった。白いだけと思った煙をよく見ると窓から射す陽の光に照らされ、白から薄紫へ豊かなグラデーションに彩られていたのだ。
そんなのを見続けているうちに、僕はくだらない想像をする。タバコの中に煙の生産工場でもあるのかもしれないと。
そこには資本家がいて、工場長がいて、労働者がいる。
資本家がお金を出し、煙工場を所有した。工場長は多くの人を束ねるために細かなルールを決めた。労働者はお互いに助け合いながら、それらのルールを忠実に守った。
誰かが煙に少し色をつけてみようと提案したのかもしれない。こういう香りがいいとか悪いとか議論したのかもしれない。あるいは却下されたアイディアは沢山あるのかもしれない。皆がそれぞれの役割を認識し、その立場に誇りをもっているように思えた。そのように団結した様は、例えるなら海上に唯一浮かぶ大型船のように雄大でどこまでも美しかった。
「広告は麻薬と同じだよ」
ジェイソンはさっきまでスポーツビジネスの話をしていたようだが、いつの間にか広告論に移っていた。
「一度始めたら、止められない。広告を打つと売り上げは上がるが、止めた途端がっくりと下がる。結局儲かるのは広告代理店だけなんだ。やつらは麻薬ディーラーと同じだよ」
「まあ、そういうな。彼らだって、クライアントに貢献しているはずだし」
僕にとって広告業界なんて全く縁のない業界なのに、話の流れで擁護するような言い方になってしまった。
「いいや、そうなんだ! ヤツらは自分たちがのうのうと――」
ジェイソンにしたって広告業界のことなどまるっきり他人事なのに、まるで親の仇のような言い方だった。
お互いよくわからない立ち位置で、話は相撲賭博の正当性からフェミニズム批判に移り、彼はそれに独自の理論を付け足しながら次々とタバコに火をつけた。
煙工場はもうフル稼働だ。それでも煙は天まで続く槍のように真っ直ぐ昇り、白と薄紫のグラデーションは絶妙で、香りは四季を感じられるほど気品に満ちていた。
芸術的とも形容できる煙の生産体制。それはいつまでも続くと思えた。
だが、一瞬微かに変化した。
僕の思い過ごしだと思ったけれど、やがて煙ははっきりと不規則になり、色にはムラが多くなった。曲線はだらしなく、香りは風味どころか雑味ばかり目立つようになった。
煙工場は荒れはじめていたのだ。
資本家はいつの間にか享楽的になり、労働者階級を搾取した。するとたちまち底辺の人たちは貧困に陥った。中産階級の人たちは、彼らのことよりも自分を守ることで精一杯だった。助け合いとは名ばかりで、お互いの足を引っ張り合うようになった。事態を打開しようと工場長はルールを増やした。でもそれは却って新たな混乱を生み出すだけだった。
あんなに理想的だった煙生産工場は、浸水が始まった大型船のようにゆっくりと傾き、今やもう、沈みゆく船を止めることは誰にもできない。
ふと気が付くとジェイソンはもう部屋をあとにしていた。灰皿に残った何本もの吸い殻に、部屋中を漂うタバコの匂いだけが残されていた。
静かで暖かな部屋の中に、子供たちの奇声や主婦の猥雑な無駄話が微風に縺れながら入ってくる。いつもと変わらない日曜の午後は穏やかそうに見えて廃墟に残された鼠色の壁のように陰鬱だ。
その後の煙工場はどうなったのだろう。
資本家は別の人物に取って代わり、それとも労働者が工場を乗っ取っとり、それとも別の解決策があって、再び輝きを取り戻したのだろうか。
更に深い闇に沈んだだけだろうか。
もう一度火を点けてみればわかるかもしれない。ジェイソンが残した吸い殻を手に取った。
『にゃぁーご』
足元では黒猫が前脚を揃えて座り、僕を見上げていた。二度、三度ゆっくり瞬きして何かを訴えている。
煙たいと言っているのかもしれない。
〈終〉




