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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
箱舟の亀裂

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第97話 溢れ出す歪み

 異常空間へと足を踏み入れた瞬間、カイを覆う物理法則が嫌な音を立ててきしんだ。


 右足を踏み出した空間は極寒に凍りついており、左半身を撫でる空気は肺を焼くような高熱を帯びている。さらに、一歩進むごとに自身の体重が羽毛のように軽くなったかと思えば、次の瞬間には鉛のように重くのしかかってくる。


「……なるほど。確かに、長居したくなる場所じゃないな」


 カイは、黒鉄に聖銀のラインが走る右腕の義手を軽く握り込んだ。空間の定数がデタラメに書き換わっているなら、そのデタラメを自分の周囲だけ「無効化」すればいい。


 カイの魂が放つ「拒絶」の波長が、義手の聖銀回路を通じて薄い膜のように展開される。極端な熱も冷気も、重力の異常も、カイの肌に触れる寸前でフツリと霧散し、ただの無害な大気へと還元されていく。


 義手の排熱ダクトから、処理された余剰エネルギーが静かに白い蒸気となって吐き出された。


「……すごい。本当にあの狂った空間を歩いているわ」


 背後から、ソフィアが感嘆の声を漏らした。彼女たち普通の人間には、もしこの異常な現象の渦中に足を踏み入れれば、ひとたまりもなく死んでしまう。カイという絶縁体が切り開いた、わずかな「正常な道」だけが、彼らが進める唯一のルートだった。


「感心してる場合じゃないぞ、先生」


 カイは周囲を警戒しながら、油断なく目を光らせた。


「俺が直せるのは、あくまで俺の手の届く範囲だけだ。この街全体に広がった歪みを全部潰して回るには、俺の体が何百個あっても足りない」


「分かっているわ。だからこそ、この異常の『発生源』……一番圧力の偏っている場所を特定して、一気にガス抜きをする必要があるの」


 ソフィアは、片目に装着した『観測鏡(スペクトル・スコープ)』のレンズを忙しく回転させ、空から降り注ぐ原エーテルの奔流と、周囲の空間の異常を交互にスキャンし始めた。


「マリアンヌが地脈から限界まで吸い上げていた莫大なエネルギーが、行き場を失ってこの大陸の循環機構の中で逆流を起こしている……。この大陸は、三千年もの間、外部と遮断された密室だった。中はすでに古いエーテルで飽和状態にあるのよ。そこに、地脈の底から引きずり出された超高圧の純粋なエネルギーが、強引に注ぎ込まれているんだわ」


「満杯の風船に、さらに高圧のコンプレッサーで空気を送り込んでいるようなものか」


 カイが低く呟くと、ソフィアは青ざめた顔で頷いた。


「ええ。空間がエネルギーを抱えきれなくなって、物理的な定数を維持できなくなっているの。だから、こんなデタラメな現象が起きている。……でも、それだけじゃないわ」


 不意に、ソフィアの顔からさらに血の気が引いた。観測鏡が、不吉な赤い光を点滅させている。


「カイ! 足元よ! スラムの地下に沈殿していた『澱』が、漏れ出した原エーテルと異常な反応を起こしているわ!」


 その警告と同時だった。


ズズズズズ……ッ!!


 腹の底を直接揺さぶるような、重く不気味な地鳴りが路地の奥から響き始めた。地震ではない。空間そのものが、許容量を超えたエネルギーの摩擦によってきしんでいる音だ。


「おいおい、なんだこの揺れは……! 下から突き上げてきやがるぞ!」


 巨大な黒鉄のプロテクターが装着された大盾を背負ったジャンが、油断なく腰を落として周囲を警戒する。先の激戦で抉られた左腕の傷が痛むのか、わずかに顔をしかめているが、その闘志は微塵も衰えていない。


「……最悪のタイミングね。ただの異常気象じゃ済まないみたいよ」


 最後尾で警戒に当たっていたヴァレリーが、魔導ライフルを構えて前へ出た。彼女の両腕から肩口にかけて残る、赤いシダの葉のような火傷の痕が、周囲の異常なエーテルに反応してピリピリと痛みを訴えている。


 カイは、静かに鋼鉄と聖銀で構成された右腕の義手を胸の高さで構えた。


 スラムの地下深く。そこに堆積しているのは、ただの泥や汚水ではない。教会の非効率な祈りによって生み出されたエネルギーの排気ガス。そして、虐げられてきた住人たちの飢餓、絶望、憎悪といった負の感情の残滓である『澱』だ。


 それが今、空から降り注ぐ純粋で強大な『原エーテル』と接触し、最悪の化学反応を起こそうとしている。


ドボォォォッ!!


 路地の奥、崩れかけたレンガの壁を内側から突き破るようにして、どす黒い紫色の泥の奔流が噴き出した。


「……来たわ! カイ、気をつけて! ただの現象の暴走じゃない。行き場を失ったエネルギーが、器を求めて『形』を持とうとしているわ!」


 ソフィアの叫びが響く中、噴き出した泥の奔流は、周囲に散乱していたレンガの破片、鉄骨、ガラス片を、強力な磁石のように強引に吸い寄せ始めた。


 ギリギリ、バキバキと、無機物が無理やり結合していく異様な音が路地に木霊する。


「……なんだありゃ。ルタムで見た泥の化け物より、ずっとタチが悪そうじゃねえか」


 ジャンが大盾を前に突き出し、冷や汗を流しながら唸った。


 現れたのは、かつてスラムの広場でカイが対峙した『餓身の怪物』とも、処刑部隊エクリプスのギデオンが見せた泥の肉体とも、全く異なる異形の存在だった。


 それは、純粋な「異常事象」の集合体だった。


 身の丈は三メートルを優に超え、四足獣のような骨格を瓦礫と鉄骨で無理やり形成している。だが、その肉体を覆っているのは、生物的な筋肉や皮膚ではない。沸騰する水、凍りつく空気、そして赤熱する炎。相反するはずの物理現象が、全く調和することなく、ただ一つの塊として暴力的に圧縮されているのだ。


グオォォォォォォォッ!!


 怪物が、複数の鉄骨を擦り合わせたような、鼓膜を劈く咆哮を上げた。その声を聞いただけで、カイの視界がブレた。音波ではない。怪物が存在するだけで、周囲の空間の重力が不規則に変動し、三半規管を直接狂わせているのだ。


「……一匹じゃないわ、カイ!」


 ヴァレリーが銃口を素早く左右に振る。彼女の言う通りだった。異常現象が起きている路地の奥から、次々と紫色の泥が噴き出し、新たな瓦礫を吸い寄せては第二、第三の怪物を形成していく。四足の獣の形をしたもの。巨大な腕の塊のような形をしたもの。どれもがデタラメな物理法則を撒き散らしながら、這いずり出てくる。


 群れだ。この大陸に溜め込まれていた三千年分の澱が、漏れ出した原エーテルを起爆剤にして、一斉に受肉しようとしているのだ。


「……これが、世界の悲鳴ってやつか」


 カイは、目の前に現れた異形の群れを冷徹な瞳で見据えながら、ぽつりと呟いた。


 教会の騎士団のように、明確な殺意や教義を持って襲ってくるわけではない。こいつらはただ、間違った圧力の蓄積によって生み出された、処理しきれない「矛盾の塊」だ。誰の悪意でもない。ただの循環の破綻。


 だが、放置すればどうなるかは火を見るより明らかだった。このデタラメな物理定数を撒き散らす群れがスラムを抜け出し、居住区へ向かえば、何も知らない人々が空間ごと押し潰され、焼き尽くされ、凍りつかされる。


『この綻びこそが結界の終焉。貴方が、この世界を殺すのですよ』


 マリアンヌの呪いのような言葉が、再び脳裏をよぎる。


 俺が、彼女の儀式を強引に解体した。そのせいで結界の構造は致命的なダメージを負い、圧力を制御できなくなった。結果として、この「制御を失った現象」の群れが地上に溢れ出している。


(……俺が壊した。だから、俺が直す)


 カイは深く息を吸い込み、右腕の義手を強く握り込んだ。カチリ、と内部の精巧な歯車が噛み合う音がして、鋼鉄の指先から肘にかけて走る『聖銀』のラインが、青白く静かな光を帯びて脈動を始める。サカキの提案したヒートパイプ構造と、ヴォルグの『常温鍛造(コールド・フォージ)』によって生み出された、完璧な冷却機構を備えた新しい「刃」。


「ソフィア。こいつらの構造、解析できるか?」


 カイが静かに問うと、ソフィアは観測鏡のデータを処理しながら、力強く頷いた。


「ええ。内部で燃焼も冷却も重力もメチャクチャに暴走しているけれど、必ずそれらを強引に繋ぎ止めている『特異点』があるはずよ。……見つけるわ。私の眼で」


「頼む」


 カイは、迫り来る怪物の群れから視線を外さずに言った。


「ジャン、ヴァレリー。俺が急所を突くまで、少しだけ時間を稼いでくれ」


「舐めるなよ、カイ。俺の新しい盾の耐久テストには、ちょうどいいサンドバッグだ」


 ジャンが豪快に笑い、プロテクターの装着された左腕で大盾をガシリと構える。


「あたしの雷で、まとめて黒焦げにしてやるわ! ……雷が真っ直ぐ飛べばの話だけどね!」


 ヴァレリーも、腕の火傷の痕を歪めて不敵に笑い、魔導ライフルの銃身にバチバチと紫電を走らせた。


 満身創痍の仲間たち。だが、彼らの闘志は少しも陰っていない。誰もが、自分たちの世界を守るために、限界を超えてここに立っている。


「……行くぞ。こいつらは、俺たちが壊した世界の残骸だ」


 カイは、義手を軽く握り込み、再びチリチリと駆動音を鳴らした。


「なら、俺たちが責任を持って、全部残らず直してやる」


 世界が上げる悲鳴の結晶。理屈を無視した歪みの群れ。その圧倒的な暴力の波に対し、修復者の少年は仲間たちと共に、新たな義手という完璧な刃を携え、真っ向から立ち向かっていった。

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