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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
箱舟の亀裂

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第96話 塞がれた空の歪み

 重厚な鋼鉄の隔壁が、低い駆動音と共にゆっくりと持ち上がる。


 地下施設『ハビタ・ゼロ』から地上へと続く、廃棄された古代インフラの隠し通路。その薄暗い空間を、四つの影が足音を忍ばせて進んでいた。


 先頭を歩くのは、新しい大盾を背負ったジャンだ。先の激戦で抉られた左腕と脇腹には、プロメテウスの職人特製の黒鉄のプロテクターが装着され、痛々しい傷跡を保護している。だが、彼の広い背中からは、怪我のハンデを感じさせるような弱々しさは微塵も感じられなかった。


「……へっ。何度見ても、イカした腕じゃねえか、カイ」


 ジャンが、肩越しに振り返ってニカッと笑った。


「親父の野郎、俺の盾より気合入れて作りやがったな」


「まあな。職人二人が徹夜で喧嘩しながら組んだ、特別製らしいからな」


 ジャンの後ろを歩くカイは、自身の右腕――艶消しの黒い鋼鉄と、幾何学的な『聖銀』のラインで構成された新しい義手を軽く持ち上げてみせた。歩く振動に合わせて、内部の精巧な歯車がチリチリと微かな音を立てている。重さはある。だが、その重量感こそが、カイの魂の出力を受け止めるための「器」としての絶対的な安心感を与えていた。


「あんまり見せびらかさないでよね。あたしの雷をうっかり吸い込まれたら、たまったもんじゃないわ」


 最後尾で警戒に当たるヴァレリーが、魔導ライフルを肩に担ぎながら軽口を叩く。彼女の両腕から肩口にかけては、限界を超えた雷撃を放った代償である、シダの葉のような赤い火傷の痕が痛々しく残っている。だが、その瞳に宿る肉食獣のような鋭い光は、少しも陰っていなかった。


「冗談じゃない。味方の放電まで吸い込んだら、俺のキャパシティがパンクする。……それに、この腕は雷を吸うための避雷針じゃない。世界の歪みを直すための工具だ」


 カイが義手の指を滑らかに開閉させると、隣を歩いていたソフィアが、片目に装着した『観測鏡(スペクトル・スコープ)』を押し上げてふふんと鼻を鳴らした。


「頼もしい口ぶりね。でも、忘れないで。貴方の出力のバルブを絞り、正確な座標を導き出すのは私の仕事よ。独りよがりな解体は許さないからね」


「分かってるよ、先生。あんたの『眼』がなきゃ、俺はただの暴走する鉄の塊だからな」


 カイは苦笑しつつ、義手の表面を左手でそっと撫でた。


 スラムの広場で見せたような、周囲の空間ごと力任せに握り潰す強引な『事象解体(デコンストラクション)』。それは確かに強力だったが、同時にカイ自身の魂を激しく摩耗させ、結果として旧型の義手をドロドロに溶け落ちさせた。


 だが、この新しい義手は違う。サカキの提案したヒートパイプ構造と、ヴォルグの『常温鍛造(コールド・フォージ)』によるミクロン単位の密閉加工。そして熱源から外殻へ向かって緻密に調整されたグラデーション合金。これらが完璧に機能し、カイの魂が発する莫大な摩擦熱を、内部の作動液の気化と液化のサイクルによって瞬時に奪い、無害な白い蒸気として外へ逃がしてくれる。


 先ほどの工房で自身の出力を限界まで流し込んだ際、カイは確信していた。どれほど巨大な熱量を誇る聖譜と相対しようとも、義手が耐えきれずに自壊し、あの生身の魂を削られる激痛に再び晒される恐怖はない。冷静に、安全に、この狂った世界の理不尽を論理でねじ伏せることができる。


「……そろそろ地上よ。気を引き締めて」


 ソフィアの低い声が、通路の空気をピンと張り詰めさせた。


 階段の先、偽装された瓦礫の扉をジャンが慎重に押し開ける。乾いた風が、地下の湿った空気を吹き飛ばすように流れ込んできた。


 カイたちは身を低くし、外の様子を窺いながら地上へと這い出した。そこは、スラムの外縁部に位置する、崩れかけたレンガ造りの廃屋が立ち並ぶエリアだった。


「……静かね。いつもなら空を飛んでいる、教会の使い魔の姿もないわ」


 ソフィアが観測鏡のレンズを回転させ、周囲のエーテル反応をスキャンして告げる。上空の監視網が機能していない。星見の祭壇での大規模な儀式の中断、そして結界の崩壊という未曾有の事態に対応するため、教会の指揮系統は今、深刻な混乱状態にあるのだろう。


「それにしても……なんだ、この空気は」


 カイは立ち上がり、眉をひそめて周囲を見回した。


 いつもなら、このスラムには重苦しく粘り気のある、紫色の霧が均等に立ち込めているはずだった。呼吸をするだけで肺が焼けるような、高濃度のエーテルによる汚染。


 だが、今の空気は違っていた。霧の濃度が、異常なほど「まだら」なのだ。完全に視界が澄んでいる場所があるかと思えば、数メートル先にはドス黒いインクをぶちまけたような、高濃度の紫色の塊が滞留している。


 まるで、かき混ぜるのをやめた絵の具の水槽のように、エネルギーの分布が極端に偏っている。


「空を、見て」


 ソフィアの震える声に促され、カイは頭上を見上げた。


 数日前、カイが星見の祭壇でマリアンヌの儀式を強引に解体したことで、空を覆う巨大な結界には致命的な亀裂が入り、一瞬だけあちら側の『星空』が顔を覗かせた。


 今、その亀裂は、分厚くどす黒い紫色の雲によって、強引に塞がれていた。教会が何らかの緊急措置を講じて、世界が外側の虚無へと崩壊するのを防いだのだろう。


 だが、その「蓋」は決して完全なものではなかった。


「……漏れてるな」


 カイの黒い瞳が、空の異変を正確に捉えていた。


 分厚い雲の隙間、かつて亀裂が走っていた傷跡のようなラインのあちこちから、まるで傷口から血が滲み出すように、高濃度の紫色の光――純粋な『原エーテル』が、滝のように地上へと漏れ出していたのだ。


「塞ぎきれていないのよ。……あの光、大気中に長年滞留していたエーテルとは濃度が全く違う。地脈から直接湧き出しているような、むき出しのエネルギーだわ」


ソフィアが、観測鏡の数値を睨みながら青ざめた顔で言った。


「おい、カイ。あそこを見ろ。……なんだありゃ」


 前方を警戒していたジャンが、信じられないものを見るように巨大な盾を下ろして指を差した。


 ジャンの視線の先、崩れかけた石壁の向こう側の路地。そこでは、カイの知る『物理法則』が、音を立てて崩壊していた。


 路地の水たまりが、突然ボコボコと沸騰し始めたかと思うと、次の瞬間にはバキバキと音を立てて凍りついている。熱源も冷却源もないのに、わずか数秒の間隔で極端な温度変化が繰り返されているのだ。


 さらに異常なのは重力だった。凍りついた水たまりのそばに転がっていたバスケットボール大の瓦礫が、まるで水中を漂うようにフワフワと宙に浮き上がり、かと思えば、突然目に見えない巨大なハンマーで上から叩きつけられたように、石畳を砕いてめり込んだ。


「温度も、重力も……メチャクチャじゃない!」


 ヴァレリーが魔導ライフルを構えたまま、戦慄の声を上げる。


「教会の連中が、遠くから隠れて攻撃してきてるの!?」


「いいえ、違うわ! 誰も聖譜なんて使っていない。これは攻撃じゃないわ!」


ソフィアが叫ぶ。


「空から漏れ出した原エーテルが、局所的に空間の定数を狂わせているのよ! 気圧や温度の異常じゃない。……空間そのものの『物理的な定義』が、破綻して異常な数値に書き換わっているんだわ!」


 カイは、宙に浮いては落ちる瓦礫を冷徹な目で見つめた。


 あちら側の世界では、1気圧下での水の沸点は100度であり、重力加速度は常に一定だ。それは世界を安定させるための絶対のルール。だが、この隔離された箱庭の中では、そのルールを維持しているのは自然法則ではなく、膨大なエネルギーによる「強固な結界」だ。


 もし、密閉された空間で、その圧力を支えていた壁に穴が開いたらどうなるか。


「……ソフィア。これって、もしかして」


「……ええ。おそらく、マリアンヌの儀式を止めた影響よ。行き場を失った莫大なエネルギーが、結界のほころびから噴き出して、この大陸の循環を内側から壊し始めているんだわ」


 カイは義手を軽く握りしめた。


 教会という組織のトップを叩き、儀式を止めれば、同郷の人間たちを救えると思っていた。だが、事態はもっと深刻だったのだ。


 俺の解体によって、結界の構造は致命的なダメージを負い、圧力を制御できなくなった。結果として、漏れ出した高濃度の原エーテルが、ランダムに物理定数を書き換える「制御を失った現象」として地上に降り注いでいる。


『この綻びこそが結界の終焉。貴方が、この世界を殺すのですよ』


 マリアンヌの呪いのような言葉が、再び脳裏をよぎる。


(……俺が壊したせいだっていうのか)


 カイは深く息を吸い込んだ。


 目の前で、瓦礫が浮かんでは落ち、水たまりが沸騰と凍結を繰り返している。それは、教会の騎士団のような明確な殺意を持った敵ではない。世界そのものが上げている、巨大な悲鳴だった。


「……行くぞ」


 カイは、異常な現象が起きている路地へ向かって一歩踏み出した。


「カイ! 危ないわ、その空間は物理法則が読めないのよ!」


 ソフィアが制止するが、カイは振り返らなかった。


「分かってる。でも、放置しておくわけにはいかないだろ。……この歪みは、俺の新しい腕の『テスト』にはうってつけだ」


 強がりではない。俺が結界を壊したせいで、世界が壊れ始めているのなら。俺が責任を持って、この狂った箱庭の循環を本来の地球の物理法則へと繋ぎ直すしかない。


 カイは、恐れを見せない黒い瞳で異常な空間を睨み据え、新たな義手と共に、世界そのものの「修復」へと踏み出した。

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