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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
箱舟の亀裂

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第95話 完璧なる冷却機構

 自室の硬いベッドの上で、カイはゆっくりと目を開けた。


 天井を這う無機質な配管から、かすかに蒸気が漏れる音が聞こえる。地下施設『ハビタ・ゼロ』の朝は、太陽の光ではなく、この規則的な機械の駆動音によって始まる。


 カイは身体を起こし、右肩を左手でそっと撫でた。イザリアとの死闘で失われた右腕。傷口そのものはヘレナやエリスの治療で完全に塞がっているが、時折、そこにあるはずのない指先が痺れるような幻肢痛と、筋肉の奥が重くきしむような鈍痛が走る。だが、数日間の休息を経て、その痛みも確実に和らいでいた。


(……よし、動けるな)


 カイは、椅子に掛けられていたレジスタンスの黒い制服を片手で不器用に羽織り、冷たい金属の廊下へと足を踏み出した。


 居住区画の広間へ向かうと、そこには以前のような張り詰めた悲壮感は消え、代わりに奇妙な活気が満ちていた。数日前に『星見の祭壇』から救出し、このアジトに保護した七人の同郷の漂流者たち。彼らはただ怯えるだけの被害者であることをやめ、すでにレジスタンスの「裏方」として強固に組み込まれていた。


 広間の片隅に置かれた黒板の前では、制服の首元を少し緩めた初老の男――リチャードが、白墨を片手にフランス語や英語を交えながら、指揮官のゲルハルトと熱い議論を交わしていた。黒板には、複雑な在庫管理の表や、物資の流通ルートを示す数式がびっしりと書き込まれている。熾烈な金融の世界で生き抜いてきたであろう彼の冷徹な計算能力が、アジトの泥縄式だった兵站を劇的に改善している証拠だった。


 また、医務室のガラス窓の向こうでは、ロゴスの制服の上にエプロンを巻いたアンナが、ヘレナの助手としてテキパキと医療器具の消毒を行っている姿が見えた。彼女のそばでは、浅黒い肌の少年マテオが、彼女に渡すための包帯を一生懸命に巻いている。


 言葉の壁はある。だが、彼らは「生き残る」という共通の目的のもと、身振り手振りと専門知識を駆使して、確実にこの異世界に自分の居場所を切り開いていた。


(……すごいな。大人の適応力ってやつは)


 カイは彼らの姿を見て、胸の奥にあった重い責任感が、少しだけ軽くなるのを感じた。俺が一人で全部を背負う必要はない。彼らは彼らで、俺の背中をしっかりと支えてくれている。


「カイ!」


 不意に、廊下の向こうから聞き慣れた凛とした声が響いた。白衣の裾をはためかせながら、ソフィアが小走りで近づいてくる。彼女の黒い瞳は、徹夜明けなのか少しだけ充血していたが、それ以上に強烈な興奮と歓喜の光で輝いていた。


「おはよう、先生。ずいぶんと嬉しそうだな」


「おはようどころじゃないわ! 今すぐ工房へ行くわよ!」


 ソフィアはカイの左腕を掴み、強引に引っ張り始めた。


「待て、待て。もしかして……」


「ええ! 組み上がったのよ! ヴォルグとサカキさんが、つい先ほど最後の調整を終えたわ!」


 その言葉に、カイの心臓が大きく跳ねた。失われた冷却機構、そして聖譜を物理的に解体するための新たな「刃」。


 カイはソフィアに急かされるまま、熱気と騒音に満ちた最下層の工房へと足を向けた。


 重厚な鋼鉄の扉を押し開けると、吹き付けてくる熱風と共に、凄まじい鉄と油の匂いが鼻腔を突いた。


 天井まで届く巨大な溶鉱炉の炎が赤々と燃え盛る中、作業台の前には二人の男が丸椅子に深く腰掛けていた。巨漢のギルドマスター・ヴォルグと、サカキだ。サカキはロゴスの制服を着ていたが、すでに至る所に油汚れや煤がこびりつき、完全に「職人の作業着」として着こなしている。


 二人とも目の下には濃い隈を作り、髪はボサボサだったが、カイの姿を認めるなり、揃ってニヤリと凶悪で、誇り高い笑みを浮かべた。


「……遅えぞ、坊主。待ちくたびれて灰になるところだったぜ」


 ヴォルグが、背中の機械腕をプシューッと鳴らしながら立ち上がる。


「来たか、カイ君。……へへっ、日本の町工場の意地、たっぷりと見せてやったぞ」


 サカキもまた、油で汚れたタオルで顔を拭いながら胸を張った。彼らの足元では、双子のドワーフ風の職人たちが、精根尽き果てたように床で大の字になって鼾をかいている。


「親父さん。サカキさん……」


 カイは息を呑み、二人の背後にある作業台へと視線を向けた。


 そこには、黒い耐熱布がかけられた「何か」が鎮座していた。


「もったいぶるつもりはねえ。見な」


 ヴォルグが太い手で布を乱暴に払い除ける。


 バサリ、という音と共に姿を現したのは――冷たく、そして息を呑むほどに美しい「鋼鉄の右腕」だった。


「……これが、新しい……」


 カイは、吸い寄せられるように作業台へと歩み寄った。


 前の義手のような、急造品の無骨さはない。主素材は艶消しの黒い鋼鉄だが、その表面には、エーテルの熱を伝えるための『聖銀』のラインが、まるで生き物の静脈のように滑らかで緻密な幾何学模様を描いて走っている。


 最も目を引くのは、肘から前腕にかけての構造だった。以前のような剥き出しの蛇腹状の放熱フィンではなく、装甲自体が微細なスリットの入った流線型に加工されている。


「見ろよ、カイ君」


 サカキが、愛おしそうにその装甲の表面を太い指でなぞった。


「君が持ち込んだ『聖銀』と、親方の用意した鋼鉄。この二つの金属を、熱源に近い内側から外側へ向かって、ミクロン単位で徐々に比率を変えながら混ぜ合わせた『グラデーション合金』だ。熱の伝導率と物理的な硬度を、一つのパーツの中で完璧に両立させてある」


「そして、その内部には……」


 ソフィアが、誇らしげに『観測鏡(スペクトル・スコープ)』を押し上げて説明を継いだ。


「サカキさんが提案した『ヒートパイプ』の構造が、血管のように張り巡らされているわ。パイプの内壁には、作動液を重力に関係なく自己循環させるための毛細管構造が、ヴォルグの『常温鍛造(コールド・フォージ)』によって髪の毛よりも細い精度で刻み込まれているの」


 現代の地球の科学知識と、異世界の魔法的な鍛冶技術。決して交わるはずのなかった二つの世界の理屈が、妥協のない職人たちの執念によって、完璧に噛み合った一つの「芸術品」としてそこにあった。


「……すげえ。本当に、これを形にしたのか」


 カイは、震える左手を伸ばし、冷たい鋼鉄の指先にそっと触れた。触れた瞬間、指先にコーティングされた聖銀が、カイの体内の微弱な生体電流に反応して、淡く青白い光を帯びて脈動した。


 まるで、主の魂が流れ込んでくるのを、今か今かと待ち構えているかのような飢餓感。


「感動してる暇はねえぞ。着けてみな」


 ヴォルグが、義手を両手で持ち上げ、カイの右肩にあてがった。


「ソケットの結合と同時に、お前の魂の波長に合わせて内部の回路が起動する。お前が力を流し込めば、それがそのまま熱の循環テストになる。……気を引き締めろよ」


「……ああ。分かってる」


 カイは短く答え、目を閉じて深く息を吸い込んだ。


カシャンッ!


 重厚な金属音が工房に響き、義手のソケットがカイの右肩の接合部に完璧に噛み合った。


 その瞬間。


「……ぐ、ぅッ……!」


 カイの視界が白く明滅した。失われたはずの右腕の神経が、冷たい金属の内部へと強引に接続され、存在しないはずの指先の感覚を無理やり脳にフィードバックしてくる。


 カイは歯を食いしばり、自身の内側にある「絶縁体」としての硬い魂の殻を開き、その『拒絶』の波動を、意図的に義手の聖銀のラインへと一気に流し込んだ。


ズォォォォォ……ッ!


 カイの魂が放つ規格外の圧力が、義手の内部を満たしていく。以前の義手であれば、この時点で処理しきれない摩擦熱が発生し、関節部から危険な黒煙を噴き上げていただろう。


 だが、今回は違った。


 魂の摩擦によって生じた莫大な熱は、即座に内部のヒートパイプに封入された作動液を沸騰させた。気化した水分が、熱を奪いながら前腕部のグラデーション合金へと超高速で移動し、外気へと熱を放出。そして冷えて液化した水は、内壁の毛細管構造を伝って、動力源を使わずに瞬時に再び熱源へと戻っていく。


プシューーーーーーッ……!!


 義手の肘から前腕に設けられたスリットから、極めて静かで、滑らかな真っ白な蒸気が、幾筋もの細い線となって吐き出された。


 暴走の兆候は微塵もない。カイの魂が放つ規格外の熱量は、完璧な循環サイクルの中に閉じ込められ、完全にコントロール下におかれていた。


「……熱く、ない」


 カイは、目を開けた。


 黒鉄と聖銀の右腕が、カイの思考と寸分違わぬ速度で動き、五本の指が滑らかに開閉した。重さはある。だが、その重さこそが、世界を直接掴み取るための確かな錨のように感じられた。


「……どうだ、坊主」


 ヴォルグが、ニヤリと凄みのある笑みを浮かべて尋ねた。


「……最高だ。俺の体の一部みたいに馴染んでる」


 カイが右拳を強く握り込むと、各部の歯車が精密に噛み合うかすかな駆動音が鳴り、聖銀のラインが青白く、静かに発光した。


「これなら、俺の『事象解体(デコンストラクション)』の出力を限界まで上げても、絶対に自滅しない。……完璧な、矛にして盾だ」


「ふふん。私の計算した熱力学の数式に、狂いがあるわけないじゃない」


 ソフィアが腕を組んで胸を張り、サカキも「よしっ!」とガッツポーズを作った。


「へっ。……俺と、あっちの世界の職人が、徹夜で喧嘩しながら組んだ『定義』だからな」


 ヴォルグがゴーグルを額に押し上げ、誇らしげに鼻を鳴らした。


 カイは、静かに蒸気を上げる鋼鉄の右腕を見つめた。


 教会の理不尽な狂信。圧倒的な熱量で世界を蹂躙しようとする処刑部隊。彼らがどんなデタラメな聖譜を振りかざそうとも、俺にはこれがある。この、日本の最新の知識と異世界の技術が結実した、最高の相棒が。


 カイは、新しい右腕で空気を掴むように強く握り込み、ソフィアを見た。


「行くぞ、ソフィア。ジャンやヴァレリーたちも呼んでくれ」


「ええ。出力の確認が終わったなら、次は実地テストね」


 ソフィアが白衣を翻し、力強く頷く。


「俺たちが祭壇を壊してから、空の亀裂がどうなったか……あの塞がれた歪みの向こうで、何が起きているか。自分の目で確かめに行かないとな」


 修復者のための、完全なる「刃」が、ここに産声を上げた。


 彼らは工房の熱気を背に、再び地上へと向かうための準備を進めるべく、重い鋼鉄の扉を押し開けて歩き出した。

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