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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
箱舟の亀裂

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第94話 鋼鉄の洗礼

 チョークの粉が舞い散る熱狂の中心に立ち、カイは二人の言葉を必死に翻訳し続けていた。


「カイ君、通訳を頼む! この親父さんに、パイプの内側に刻む溝の『深さ』と『角度』の数値を伝えたい!」


 油とチョークの粉にまみれたサカキが、血走った目で振り返り、カイを呼んだ。


 カイは、高校の物理で習った毛細管現象の理屈を思い出しながら、できるだけ平易な現地の言葉へと変換していく。


「ええと……親父さん! サカキさんが言ってるのは、冷えて水に戻った作動液が、重力に関係なく熱源の方へ戻っていくようにするための構造だ。そのために、パイプの内側にものすごく細かく、特定の角度で溝を刻みたいらしい」


 ヴォルグはゴーグルを額に押し上げたまま、サカキが図面に描き殴った断面図を太い指でなぞった。


「……なるほど。液体の表面張力とやらを利用して、自力で循環させるための道筋ってわけか。俺の『常温鍛造(コールド・フォージ)』で金属を液状化させてから、専用の型で引き抜けば、この微細な溝を作ることは不可能じゃねえ」


 ヴォルグは深く頷いたが、すぐに職人としての厳しい顔つきに戻った。


「だがな、サカキ。お前の描いたこの溝の密度と深さじゃ、パイプ自体の壁が薄くなりすぎる。この義手は実戦で使うんだ。殴り合いの衝撃も加わるし、カイのデタラメな出力の余波も直接受ける。こんなペラペラの壁じゃ、戦闘の衝撃でひしゃげて、内部の密閉状態が崩れちまうぞ」


 カイがその懸念を通訳すると、サカキは首に巻いたタオルで額の汗を乱暴に拭った。


「……やっぱり、強度の問題がネックになるか。だったら、パイプの外側にリブ……補強のための骨組みを立てて強度を稼ぐしかない」


 サカキはチョークを手に取り、パイプの外側に線を描き足そうとする。だが、ヴォルグがその手を乱暴に制した。


「馬鹿言え! 人間の腕のサイズに収めるこの義手の中に、リブなんて立てる無駄なスペースがどこにあるってんだ! スペースがねえなら、素材そのものを変えるしかねえ」


 ヴォルグの視線が、作業台の隅に無造作に置かれていた黒ずんだ金属の塊に向いた。かつてカイがスラムのゴミ山で見つけ、この工房へと持ち込んだ『聖銀』の針金の束だ。


「カイが拾ってきたこの聖銀と、鋼鉄を混ぜ合わせる。合金比率を限界まで調整して、硬度と熱伝導率の落とし所を探るんだ」


「合金!?」


 カイの通訳を聞いたサカキが、驚愕に目を見開く。


「常温で違う金属同士を混ぜ合わせるってのか!? 現代の工場だって、金属を高温で溶かしてから合金を作るんだぞ! いくら親父さんの熱を使わない神業でも、ミクロン単位のムラもなく、完璧に均一な合金を作ることなんてできるのか!?」


「当たり前だ! 俺を誰だと思ってやがる!」


 ヴォルグが胸を張り、ニヤリと笑う。その自信に満ちた顔を見て、サカキの眼の色が変わった。日本の町工場で培った技術者としての発想が、異世界の常識外れの加工技術という強力な武器を得て、一気に限界を突破していく。


「親方……あんた、それができるなら、ただ均一に混ぜるだけじゃもったいないぞ!」


サカキは図面の上のチョークを叩きつけた。


「グラデーションだ! パイプの場所によって、合金の比率を変えるんだよ!」


「なんだと?」


「熱の発生源に近い内側の部分は、熱伝導率が高い聖銀の比率を極限まで上げる。そして、外部の衝撃を受ける外側の装甲に向かって、少しずつ硬い鋼鉄の比率を上げていく。層ごとに金属の性質を滑らかに変化させるんだ。俺たちの世界じゃ『傾斜機能材料』って呼ばれてる技術だ!」


 カイが必死にその概念を現地の言葉に置き換えていく。性質の違う金属を、境目なく徐々に変化させながら結合させる。ヴォルグは腕を組み、深く唸った。


「……徐々に比率を変えながら、分子を固定していく……。ツァーン! ボルツ!」


 ヴォルグの怒号に応え、工房の奥から双子のドワーフ風の職人が駆け寄ってきた。


「へい、親方!」


「聖銀の精錬を急げ! 不純物を限界まで抜け! それから、鋼鉄のインゴットを六種類の異なる硬度に分けて用意しとけ!」


「了解です!」


 双子が嬉々として溶鉱炉の方へ走っていく。


「おい、サカキ。理屈は通った。俺の鍛冶なら、そのグラデーション配合ってやつも実現してやる。……だがな、肝心なもんが足りねえぞ」


 ヴォルグは、広げられた巨大な設計図を指差した。


「構造のアイデアは完璧だ。だが、このパイプの中に作動液となる水をどれだけの量封入すればいい? このグラデーション合金の各層の厚みは、何ミリに設定すれば一番効率よく熱が逃げる? その『正確な数値』がなきゃ、俺の技術でも形にはできねえ」


 サカキが押し黙る。彼は優秀な技術者だが、複雑な熱力学の計算を暗算で行えるわけではない。ましてや、ここは未知の金属と未知のエネルギーが支配する世界だ。地球の公式がそのまま当てはまるとは限らない。


「……私の出番ね」


 一歩引いた位置で見守っていたソフィアが、白衣を翻して二人の職人の間に歩み寄った。彼女の手には、分厚い資料の束と石板デバイスが握られている。片目に装着した『観測鏡(スペクトル・スコープ)』が、知的な光を放っていた。


「カイの義手が記録していた直前の稼働データと、私が観測したあの処刑部隊の熱量の最大値。それを元に、最適な封入量と排熱ダクトの配置、それに合金の層の厚みを割り出すわ」


 ソフィアは、手元の石板を指で素早く弾いた。


「サカキさん、その熱を移動させる公式を教えて。それをこの世界の物理定数に変換して、私が完璧な『数式』を組んでみせるわ」


 サカキが日本の公式を暗唱し、カイがそれを翻訳し、ソフィアが計算を行う。そこから先は、時間の感覚が完全に消失するような、濃密で過酷な作業の連続だった。


 溶鉱炉の炎が赤々と燃え盛り、工房の温度は容赦なく上がっていく。サカキは油まみれの作業着の袖をまくり上げ、ヴォルグが用意した図面の束に次々と新しいアイデアを書き込んでいく。日本の町工場で培われた、ミリ単位の精度を求める妥協のない設計。対するヴォルグは、サカキの要求する常識外れな構造を、自身の神業でどう実現するかを即座に判断し、修正を加えていく。そして、彼らがぶつかる構造上の矛盾や数値のズレを、ソフィアの優秀な頭脳が瞬時に計算し、最適な落とし所を提示する。


 カイは、その中心で必死に言葉を変換し続けた。熱力学、流体力学、材料工学。あちら側の世界で学んだ知識が、これほどまでに生き生きと、そして切実に求められたことはなかった。右肩の喪失部分は包帯の下でまだズキズキと痛むが、不思議と疲労感はなかった。


 何十枚もの羊皮紙が丸められては、工房の床に捨てられていく。怒鳴り合い、図面を修正し、また数式を組む。


 やがて、スラムの地下深くにあるこの工房にも、朝の気配が近づいていた。


「……よし。これで、全部だ」


 サカキがチョークを放り投げ、油と煤で真っ黒になった手で顔の汗を拭った。


 作業台の中央には、一枚の巨大な羊皮紙が広げられていた。そこには、かつての義手とは比べ物にならないほど複雑で、緻密な内部構造を持つ、新しい右腕の設計図が描かれていた。血管のように張り巡らされた極細のパイプ。その内部にはサカキが提案した微細な毛細管構造が指定されている。外装は、ヴォルグの技術によって硬度と熱伝導率を完璧に調整された聖銀と鋼鉄のグラデーション合金。そして、ソフィアの計算によって導き出された、最適な排熱ダクトの配置。


 現代の知識と、異世界の技術。決して交わるはずのなかった二つの世界の理屈が、完全に融合して一つの形を成していた。


「……ああ。間違いない。こいつは、俺の鍛冶屋人生で最高の傑作になる」


 ヴォルグが、設計図を食い入るように見つめながら、低い声で唸った。彼の目には、疲労よりも深い充足感と、職人としての誇りが燃えていた。


「よくやったな、サカキ。お前さんの頭ん中に入ってるその工夫ってやつは、本当に恐ろしい技術だぜ。俺一人じゃ、一生かかってもこんな構造には辿り着けなかった」


 ヴォルグが、サカキに向かって言いながら、太い右腕を差し出した。カイの通訳を待つまでもなく、その瞳に込められた最大級の敬意は、サカキにも痛いほど伝わった。


「……へっ。日本の町工場の意地ってやつさ。親方のその神業がなきゃ、ただの絵空事で終わってたよ」


 サカキは、日本語で照れくさそうに笑いながら、油まみれの自分の右手を差し出し、ヴォルグの太い手と固い握手を交わした。言葉の壁を超え、モノづくりという魂の次元で、二人の職人が完全に結びついた瞬間だった。


「……終わったわね」


 隣で、ソフィアがフラフラとしながら作業台に手をついた。彼女の目元には濃いクマができているが、その口元には達成感に満ちた笑みが浮かんでいた。


「あとは、ヴォルグがこの図面通りに形にするだけよ」


「ああ。ありがとう、ソフィア。あんたの計算がなきゃ、俺たちの知識は空回りするだけだった」


 カイは、彼女に労いの言葉をかけながら、作業台の上に広げられた設計図を見つめた。


 失われた右腕。それは、教会の理不尽な狂信によって理屈が押し潰された、敗北の象徴だった。だが今、この図面に描かれているのは、ただの代用品ではない。熱を逃がし、出力を制御し、俺の魂の刃を最も鋭く敵の核へ届けるための、最高の『矛』であり『盾』だ。これがあれば、俺はもう自滅に怯えることなく、世界の歪みと正面から向き合うことができる。


「よし、お前ら! 休憩は終わりだ!」


 握手を終えたヴォルグが、バンと力強く両手を叩いた。


「ツァーン、ボルツ! 素材の準備はできてるな! ここからは俺の時間だ。……カイ、数日だ。数日だけ時間をくれ。必ず、この設計図通りのバケモノを組み上げてやる」


 ヴォルグはゴーグルを装着し、背中の機械腕を勢いよく起動させた。


「完成したら、真っ先に呼び出してやる。それまで、せいぜい英気を養っておくんだな」


「頼んだよ、親父さん」


 カイは、サカキとソフィアと共に、熱気に満ちた工房に背を向けた。疲労は限界に達しているが、足取りは驚くほど軽かった。カイは右肩の包帯を左手で軽く押さえ、重い鋼鉄の扉を押し開けて冷たい廊下へと出た。

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