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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
箱舟の亀裂

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第92話 溶け落ちた右腕

 冷たく無機質な金属の廊下を、カイとサカキは並んで歩いていた。 


 居住区画からさらに地下深くへと続くその通路は、進むにつれて空気がじっとりと湿り気を帯び、わずかな焦げ臭さと油の匂いが漂ってくる。


「……随分と、地下深くまで降りるんだな」


 サカキが、剥き出しになった岩盤の壁を珍しそうに、そして少し不安そうに撫でながら呟いた。


「ええ。教会の監視の目から逃れるために、拠点のさらに下層……昔の文明が遺した廃棄区画の境界線近くに、その工房はあるんです」


 カイは、左手にはめた耐熱グローブの感触を確かめながら答えた。右肩の喪失部分が、包帯の下でズキズキと痛む。ルタムの街で処刑部隊『エクリプス』の隊長・イザリアと交戦し、強烈な熱波を強引に解体しようとした代償。あの時、ヴォルグが精魂込めて造り上げてくれた義手がなければ、カイは右腕どころか全身を灰にされていたはずだ。


「カイ!」


 背後から、凛とした声が響いた。振り返ると、白衣を翻しながらソフィアが小走りで駆け寄ってくる。手には分厚い資料の束と、石板型のデバイスを抱えていた。


「ソフィア。……資料の整理は終わったのか?」


「ええ。貴方の義手が記録していた直前の稼働データと、私の『観測鏡(スペクトル・スコープ)』の数値を照らし合わせてきたわ。……最悪の数値よ」


 ソフィアは険しい顔で告げた後、カイの隣を歩く作業着姿のサカキを見て、わずかに目を丸くした。


「そちらの方は……先ほどの、同郷の?」


「ああ。サカキさんだ。向こう側の世界で、三十年近く金属加工の仕事をしてきた職人だよ。……俺の新しい腕を造るのに、彼の『目』が役に立つかもしれないと思って、来てもらったんだ」


 カイが紹介すると、サカキは言葉が通じないと分かりつつも、ソフィアに向かって愛想よく頭を下げた。ソフィアも少し驚いた様子だったが、すぐに真剣な表情に戻り、小さく会釈を返した。


「……異世界の技術者の視点ね。確かに、今の私たちには、これまでの常識を覆すような突破口が必要だわ」


 三人は並んで薄暗い通路を進み、やがて突き当たりにある重厚な鋼鉄の扉の前に辿り着いた。扉にはハンマーと歯車を組み合わせた無骨な紋章が刻まれ、その上には乱暴な文字で『祈る暇があるなら手を動かせ』と彫り込まれている。


 カイが左手で重い鉄扉を押し開けた瞬間。


「うおっ……!?」


 サカキが思わず腕で顔を覆い、驚きの声を上げた。扉の向こう側から、強烈な熱気と、鼓膜を震わせるような凄まじい金属の打撃音が雪崩れ込んできたのだ。


 そこは、まるで巨大な火山の火口の底に作られた要塞のような空間だった。天井まで届く巨大な溶鉱炉が赤々と燃え盛り、蒸気機関のふいごがシュッシュッと力強いリズムを刻んでいる。

サカキの目を何よりも丸くさせたのは、その光景の「異質さ」だ。日本の町工場で見慣れた旋盤やプレス機とは違う。宙にふわりと浮遊している巨大な金床。そして、炉の中で燃え盛る炎の色が、赤から青、緑へと、まるで意思を持っているかのように変幻自在に色を変えながら金属を熱しているのだ。


「こ、これが……異世界の、鍛冶場……」


「鉄血職人ギルド『プロメテウス』の工房です。魔法という曖昧な奇跡に頼りきったこの世界で、唯一、物理的な法則を追求してモノを造っている連中ですよ」


 カイの言葉に、サカキは呆然としながらも、どこか懐かしそうに油の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。聖譜が混ざっていても、鉄を打ち、熱と汗にまみれてモノを生み出すその熱気は、彼が三十年間生きてきた「工場」の空気そのものだったからだ。


「……遅えぞ、お前ら」


 作業台の奥から、岩のような巨躯を持つ男がぬっと姿を現した。顔には火傷の痕が刻まれ、頭に多機能ゴーグルを載せたギルドマスター、ヴォルグだ。彼の背中から伸びる二本の機械の腕が、苛立たしげに蒸気を吹いている。


「親父さん。……呼び出して悪かったな」


 カイが歩み寄ると、ヴォルグは挨拶もそこそこに、作業台の上に無造作に置かれていた「黒い塊」を指差した。


「……生きて帰ってきたことだけは褒めてやるがな。こいつの惨状を見りゃ、お前らがどれだけ無茶をやらかしたか一目瞭然だ」


 カイとソフィア、そしてサカキが作業台を覗き込む。


 そこにあったのは、かつて美しい銀色のラインが走り、精巧な歯車が噛み合っていた、カイの右腕の義手の残骸だった。


 原型は、もはやほとんど留めていなかった。表面の鋼鉄の装甲はドロドロに溶け落ちて黒く炭化し、関節部分のねじは熱膨張で弾け飛んでいる。唯一、カイの魂の波長を流し込むための『聖銀』の太い線だけが、辛うじて原形を保っていたが、それも黒く変色し、完全に機能を停止していた。


「……ひどい有様だな。俺の腕についてたものとは思えない」


 カイは、その無惨な残骸を見て、ルタムの広場での絶望的な死闘を思い出した。


 イザリアの放った熱量は、物理法則の限界を狂信という歪みで強引に突破した、暴力的なまでの飽和攻撃だった。カイはそれに対抗するため、義手の限界を超えて魂の『解体』の出力を全開にした。


 結果として、カイの魂とイザリアの狂信が激突した境界線で、凄まじい摩擦熱が発生したのだ。


「俺が仕込んだ冷却機構が、まったく追いついていなかったんだ」


 ヴォルグが、太い指で義手の肘部分――かつて蛇腹状の放熱フィンが並んでいた場所を叩いた。フィンは熱に耐えきれず、完全に溶け合って一つの金属の塊になっている。


「聖銀の回路自体は、お前の魂の異常な出力をどうにか持ち堪えた。だが、問題は『排熱』だ。お前が敵の術式を解体した時に生じる反動の熱が、この放熱フィンから大気中に逃げ切る前に、次から次へと新しい熱が注ぎ込まれた。結果、行き場を失った熱が内部に逆流し、駆動用の歯車をドロドロに溶かして自壊したんだ」


「……私の観測データでも、その通りだったわ」


 ソフィアが、悔しそうに石板デバイスの画面を指で弾いた。


「あのイザリアという女の火力は、私たちが想定していた最大値の、数十倍に達していたわ。燃焼のプロセスを無視して、ただ己の命を燃やして熱を出し続けるなんて……あんなデタラメな出力、どう計算しても防ぎきれるものじゃない」


 ソフィアの言葉に、工房の空気が重く沈んだ。


「親父さん。……直せるか?」


 カイの問いに、ヴォルグは深く、重い溜息をついた。


「直すだけなら、数日あれば同じものは造れる。俺の『常温鍛造』の技術を使えば、どんな複雑な形状でも金属を捏ねて組み立ててやることはできるさ」


 ヴォルグの顔が、職人としての苦悩に歪む。


「だがな、カイ。同じものを造ったところで、次にそのイカれた修道女とやり合えば、また数秒で同じように溶け落ちるだけだ」


「……」


「いいか。熱を逃がすための空冷式の構造ってのは、外気に触れる『表面積』の広さに依存している。お前が提案した放熱フィンのおかげで、以前よりも格段に熱は逃がせるようになった。だが、あれだけの異常な熱量を瞬時に逃がし切るには、今の表面積じゃ絶対に足りねえ」


 ヴォルグは、作業台の上の図面を乱暴に指で叩いた。


「これ以上の冷却効率を生み出そうと思えば、放熱フィンの数を今の十倍、二十倍に増やすしかねえ。……つまり、お前の右腕を、丸太みたいに巨大な鉄の塊にするしか方法がないんだ。そんなバカでかい腕を引きずって、実戦で素早く動けるわけがねえだろうが」


「……液冷式はどうなの? 水や冷却液を循環させて熱を奪う仕組みなら……」


 ソフィアが提案するが、ヴォルグは首を横に振った。


「ダメだ。液冷のポンプや配管を、人間の腕のサイズに収める精密な技術が俺たちにはねえ。それに、戦闘中に配管が一つでも破損すれば、冷却液が漏れて一瞬でポンコツになる。リスクが高すぎる」


 八方塞がりだった。


 ヴォルグの『常温鍛造』という、金属を粘土のように自在に操る魔法のような加工技術があっても。ソフィアの優秀な頭脳による計算があっても。


 「熱を逃がす」という物理的な構造の限界が、彼らの前に絶望的な壁となって立ちはだかっていたのだ。


「……じゃあ、どうすればいい」


 カイは、残された生身の左手を固く握りしめた。


「義手がないまま、あの連中と戦うってことは……俺が素手で、あいつらのデタラメな聖譜に直接干渉するってことだ。俺の魂という絶縁体が、あの熱と直接摩擦を起こせばどうなるか……あんたたちも分かってるだろ」


 生身で干渉すれば、摩擦熱は義手というクッションを介さず、カイの魂と肉体を直接焼き焦がす。イザリアのあの圧倒的な熱量の前に素手で立ち向かえば、『魂蝕』によって、今度こそカイの存在そのものが一瞬で燃え尽きる。確実な死だ。


「……分かってるわよ。だから、どうにかして今のサイズを保ったまま、冷却効率を爆発的に引き上げる『新しい構造』を考えなきゃいけないのよ……!」


 ソフィアが苛立たしげに髪を掻きむしり、図面を睨みつける。ヴォルグもまた、無言のまま腕を組み、溶け落ちた義手の残骸を険しい目で見つめていた。


 熱と騒音に満ちた工房の中で、カイたち三人の間だけが、重く、息苦しい沈黙に支配されていた。聖譜を解体する力があっても、それを振るうための器が耐えられない。これでは、教会の本拠地へ乗り込むどころの話ではない。


 その、絶望的な沈黙を破ったのは。


 スッ、と。


 作業台の前に、油汚れた作業着の袖が伸びてきた。


「……サカキ、さん?」


 カイが驚いて声をかける。いつの間にか、サカキがカイたちの横に立ち、ヴォルグが広げていた義手の設計図と、溶け落ちた義手の残骸を、食い入るように見つめていたのだ。


 先ほどまで、異世界の鍛冶場に怯え、戸惑っていた中年の男の面影は、そこにはなかった。


 サカキの目は、図面に描かれた放熱フィンの構造と、残骸の溶け落ちた箇所を交互に比較し、鋭く細められている。それは、三十年間、日本の町工場でミクロン単位の金属加工と向き合い、無数の機械の不具合を直してきた、「熟練の技術者」の顔だった。


「……なぁ、カイ君」


 サカキが、図面の一箇所を太い指でトンッと叩き、日本語で口を開いた。


「この腕を作った職人さんに、聞いてくれないか。……この『放熱板』の中身は、ただの空洞の鉄パイプなのかって」


「……え?」


「いいから、聞いてみてくれ。もし俺の予想が当たってるなら……」


 サカキは、焦げた義手の残骸を指差し、その瞳に確かな熱を宿してカイを見た。


「腕のサイズを大きくしなくても、熱を逃がす効率を何倍にも引き上げる『構造』のアイデアが、俺にあるかもしれない」

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