第9話 形を成した飢餓
目の前で、瓦礫の山が再び盛り上がっていく。
解が一度は吹き飛ばしたはずの怪物の右腕。それが、地面に散らばった鉄屑や石材を磁石のように吸い寄せ、見るも無残な速度で再構築されていく。だが、解の瞳に動揺はなかった。すでにそのカラクリを見抜いていたからだ。
(やっぱりな。質量保存の法則だ。エネルギーが尽きない限り、ガラクタは何度でも組み上がる)
目の前の怪物は、生物ではない。人々の祈りと恐怖をエネルギー源として動く、自律型の廃棄物処理システムだ。外側の装甲をいくら壊しても意味がない。止めるには、その奥でドクン、ドクンと不快なリズムで脈動している紫色の心臓――エネルギーの供給源そのものを断つしかない。
怪物は、再生した巨大な腕を自慢するように振り回した。その風圧だけで、近くにあったあばら屋の屋根が吹き飛ぶ。怪物の頭部と思しき瓦礫の塊から、ギギギ、ゴゴゴ……という、金属が擦れるような嘲笑の声が響いた。
怪物は、さらに巨大化した腕をゆっくりと振り上げた。その先には、逃げ遅れたアイアと、彼女を守ろうとするあの老人がいた。
「……、……!!」
老人は、口元から血を流しながらも、アイアを背に隠し、震える手で杖を掲げていた。その瞳には、恐怖を乗り越えた決死の覚悟が宿っている。老人が杖を地面に突き立てると、彼の足元に、複雑怪奇な光の幾何学模様が展開された。
「――――、――――。……――――!!」
老人が紡ぎ始めたのは、解が初めて聞く、長く、悲しいほどに荘厳な旋律だった。周囲の大気が激しく振動する。スラムの薄暗さをかき消すほどのまばゆい光が、老人の杖の先に集束していく。それは数日前、解が広場で目撃した「湯沸かし」の時とは比べ物にならない、老人の全生命力を燃やした最後の一撃だった。
解には、老人の過去も、素性も分からない。だが、その魔法の緻密さと美しさは、このゴミ捨て場のようなスラムには似つかわしくないほど高潔だった。
だが、解の目には、それがあまりにも残酷な利敵行為にしか見えなかった。
「やめろ! じいさん、撃つな!!」
解は叫んだ。肺が裂けそうなほどに。老人の魔法は、あまりに丁寧すぎた。光を放ち、空間を飾り、神への感謝を捧げる。そのプロセスで発生する膨大な「装飾」こそが、怪物が最も好む餌なのだ。
解の制止は間に合わなかった。老人の杖から放たれた極大の閃光が、怪物へと直撃する。
――ジュボォォォォォッ!!
爆発音はしなかった。代わりに響いたのは、巨大な掃除機が空気を吸い込むような、間の抜けた音だった。怪物の胸にある紫の心臓が、歓喜するように激しく脈動した。老人が放った光は、怪物に傷一つ付けることなく、そのすべてが燃料として心臓へと飲み込まれていく。
「……、……あ……」
老人の目が、驚愕に見開かれる。魔法を無効化されただけではない。魔法というパイプを通じて、老人自身の魂の灯火までが、根こそぎ吸い取られたのだ。杖が手から滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てる。老人は枯れ木のように膝から崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
「ジ、イ……ッ!!」
アイアの悲鳴が響く。彼女が老人に駆け寄り、その体を揺さぶるが、老人からの反応はない。ただ微かな呼吸だけが、彼が辛うじて生きていることを伝えていたが、それも風前の灯火だった。
エネルギーを捕食した怪物は、一回り巨大化した。継ぎ接ぎだらけだった体からは紫色の炎が噴き出し、その咆哮はもはや物理的な衝撃波となって、解の体を吹き飛ばさんばかりに圧迫した。
(やっぱりだ。ここは『閉鎖循環』になってる。俺たちが祈れば祈るほど、排熱があいつの中に蓄積される。熱力学の悪夢だ)
解は、強風に煽られる枯れ葉のように揺らぐ体を、あばら屋の柱にしがみついてどうにか支えていた。勝てない。物理攻撃は再生され、魔法攻撃は吸収される。物理法則も魔法法則も、この怪物の前では無力だ。
怪物が、ゆっくりと首をもたげた。その顔のない頭部が、アイアと老人を見下ろしている。次は彼らを、物理的に踏み潰して消化するつもりだ。
(……逃げるか?)
解の脳裏に、冷徹な計算が走る。怪物の注意は老人たちに向いている。今なら、瓦礫の陰に紛れて逃げ出せるかもしれない。自分はこの世界の住人ではない。彼らを助ける義理はない。ここで死んだら、日本の家族も、友人も、誰も俺の最期を知ることはない。ただの行方不明者として処理されるだけだ。
逃げろ。生き延びろ。こんなわけのわからない世界で、英雄ごっこをして死ぬなんて馬鹿げている。
解は一歩、後ずさりした。踵が瓦礫に当たる。その時、視界の端で、アイアがこちらを振り向いた。
彼女の瞳と、目が合った。
彼女は泣いていた。だが、その瞳に宿っていたのは、助けを求める卑屈な色ではなかった。「逃げて」と言っていた。自分たちに関わったせいで、この異邦人を巻き込んでしまった。そのことへの謝罪と、せめて彼だけでも生き延びてほしいという、痛々しいほどの献身。
解の脳裏に、記憶がフラッシュバックする。渇きに苦しんでいた自分に、彼女が震える手で水を差し出してくれたこと。言葉も通じない、得体の知れない「異物」である自分に、名前を教えてくれたこと。毒でしかない果実を、自分の分を削ってまで分け与えようとしてくれたこと。
進路希望調査票を白紙で出すような、自分の未来にさえ興味が持てなかった自分。学校というシステムの中で、ただ流されるまま生きてきた自分。だが、この不快な音に満ちた地獄で、名前も知らないあの老人と、アイアだけは、解を「一人の人間」として扱ってくれた。
(ふざけるな)
解の手が、瓦礫を強く握りしめた。掌に鋭い石が食い込み、血が滲む。その痛みが、恐怖で麻痺しかけていた思考を鮮明に覚醒させた。
(蛇口を開けて、ホースを繋いで、順序よく水を流そうとするから、途中で盗まれるんだ。あんたたちの魔法は、育ちが良すぎる。こんな汚い世界で、そんな綺麗な作法が通じるわけがないだろ)
解は、自分の胸に手を当てた。そこには、日本という「真空」の世界で、形を保つためだけに異常なほど硬化した、歪な魂がある。この世界のあらゆる理を弾き返す、最強の絶縁体。
これまで彼は、この硬い殻を、外のノイズから身を守るための壁として使ってきた。だが、もしこの殻を……対象を直接叩き壊すための拳として使ったら? 魂という名の高純度の絶縁体が、混じり気だらけの、不純物の塊である怪物の心臓に直接触れたら、一体どうなるか。
(詰み、じゃない。一手だけ、残ってる)
解の視線が、怪物の胸元で輝く心臓に吸い寄せられた。瓦礫の装甲の奥深く。高密度の汚染エネルギーが渦巻く中心。あそこだけが、このガラクタ人形を動かしている動力炉だ。外側からの破壊では、再生されてしまう。なら、内側から。あいつの懐に飛び込んで、あの心臓を直接握りつぶす。
だが、あそこに至るまでには、解の魂を瞬時に溶解させるほどの猛毒のバリア――紫色のエネルギーの奔流が渦巻いている。
(遠距離からの干渉じゃ届かない。あそこまで近づくには、生身で飛び込むしかない)
それは自殺行為だった。あの光に触れれば、普通の人間なら一瞬で蒸発する。俺の魂が、どれだけ保つ? 十秒か、五秒か。……いや、一瞬でいい。一瞬だけ、あいつの核に触れる時間があれば。
「……、……」
解は、ゆっくりと立ち上がった。足が震えている。怖い。当たり前だ。あんな汚染物質の塊の中に飛び込むなんて、正気の沙汰じゃない。帰りたい。あの退屈な教室へ。白い進路希望調査票の前に。
「くそッ」
解は、深く息を吸い込んだ。肺が焼けるように熱い。彼は脳内で、かつて学校で習った教科書のページをめくった。作用には、反作用がある。エネルギーは保存される。世界はデタラメなんかじゃない。どんなに魔法が支配する世界でも、その根底には冷徹な物理法則が流れている。それを信じろ。
(俺は勇者じゃない。魔法使いでもない)
「……久澄、解。……17歳。……日本の、高校生……」
彼は、遠い記憶の彼方にある自分の輪郭を、祈りのように頭のなかで繰り返した。特別な力も使命も持たない、ただの人間としての意地。
(作用には、反作用がある。世界は、デタラメなんかじゃない)
恐怖で震える脳を、かつて習った理屈で無理やり固定する。
(行くぞ。俺自身が『弾丸』になる。あいつの懐に潜り込んで、その心臓を、物理的に握りつぶす)
解の瞳から、怯えが消えた。代わりに宿ったのは、職人が故障箇所を見定めたときのような、冷たく、静かな覚悟だった。
「アァァァァァッ!!」
解は咆哮した。それは恐怖を振り払うためであり、同時に自分の魂の出力を全開にするための合図だった。地面を蹴る。防御のためではなく、攻撃のために。紫色の光が渦巻く死の嵐へ向かって、たった一人の「異物」が、一直線に走り出した。
怪物が反応し、巨大な腕を振り下ろす。解は止まらない。迫りくる瓦礫の山を見据え、その軌道を冷徹に予測する。当たる。死ぬ。――いや、弾く。
「邪魔だッ!!」
解の体が、青白いスパークに包まれた。魂の硬度を最大まで高め、物理的な衝撃すらもノイズとして弾き返す。ドォォォン!! 怪物の腕が解を直撃した。だが、砕けたのは解の体ではなく、怪物の腕の方だった。絶縁体の突撃が、怪物の構成エネルギーを局所的に霧散させたのだ。
土煙を突き破り、解が飛び出す。目の前には、脈動する紫色の心臓。だが、そこに至る空間は、濃密なエネルギーの壁に守られている。肌がチリチリと焼ける。鼻血が噴き出す。視界がホワイトアウトする。
(痛い、熱い、苦しい……! 削れる、俺の中身が、削れていく……!)
魂が悲鳴を上げている。警告音が鳴り響いている。直ちに退避せよ、生存不能領域だ、と本能が叫んでいる。だが、解は足を止めなかった。
逃げ惑う住人たち。祈りを捧げる老人。そして、自分を信じて見上げる少女。そのすべてを背負うつもりはない。だが、目の前の「間違い」を正さずに去ることは、もはや俺自身が許さなかった。
(知ったことか! どうせこのままじゃジリ貧だ! なら、全部賭ける!)
解は、血まみれの右手を、光の渦の中心へと突き出した。あと数メートル。あと数センチ。指先が、炭化しそうなほどの熱を感じる。その先にある、確かな「核」の感触。
「捕まえたぞ……!!」
久澄 解は、怪物という名の「致命的なエラー」へと手を伸ばした。解の指が、怪物の心臓――事象の結び目へと、物理的に食い込んだ。




