第89話 交わらない言葉
医務室を出たカイは、冷たい金属の廊下を歩いていた。
目的地は、ヴォルグの工房だ。ルタムでの死闘でドロドロに溶け落ちてしまった右腕の義手。あれがないと、自身の『事象解体』によって生じる魂の摩擦熱を逃がすことができず、まともに戦うことすらできない。次の戦いに備えるためにも、一刻も早くヴォルグのところへ向かい、今後の対策を相談しなければならなかった。
だが、分岐点に差し掛かったところで、カイの足は自然と止まった。
右へ行けば、熱気と騒音に満ちた工房。左へ行けば、居住区画。カイの視線は、薄暗い廊下の左奥へと向いていた。
(……あいつら、どうしてるだろうか)
数日前、『星見の祭壇』から強引に引き剥がし、この地下施設『ハビタ・ゼロ』へと連れ帰ってきた七人の同郷の人間たち。言葉も通じない、物理法則すら狂ったこの世界に、昨日まで当たり前の日常を生きていた彼らが突然放り込まれたのだ。スラムで目覚めた直後、言葉の通じない恐怖と、水すらも猛毒となる環境で味わったあの圧倒的な絶望を思えば、彼らが今、どれほどの不安を抱えてあの部屋にいるかは想像に難くない。
「……親父さんのところへ行くのは、後にしよう」
カイは踵を返し、居住区画へと続く重い鉄扉に向かって歩き出した。
居住区画の一角、彼らが保護されている大部屋の前に着く。扉の向こうからは、怒号や悲鳴は聞こえない。代わりに、ひどく沈鬱で、張り詰めたような静けさが漂っていた。
ゆっくりと扉を押し開ける。
部屋の中では、ロゴスの裏方メンバーたちが数人、困り果てた顔で立ち尽くしていた。彼らの手には、木皿に乗せられた黒パンと、水差しの入ったトレイが握られている。そして部屋の奥には、七人の漂流者たちが、身を寄せ合うようにして固まっていた。誰も暴れてはいない。ただ、彼らの瞳には、理解不能な状況に対する極度の「怯え」と「疲労」が色濃く張り付いていた。
ロゴスのメンバーが柔らかな現地の言葉で食事を勧めても、彼らにとっては意味をなさない呪文にしか聞こえない。おまけに、ロゴスのメンバーたちの多くは色素の薄い瞳や髪を持っており、見知らぬ場所に拉致された彼らにとっては、ただの親切な人々ではなく「得体の知れない異世界の住人」としての不気味さが勝っているのだろう。
そんな沈鬱な空気の中、一人だけ立ち上がり、懸命に皆を落ち着かせようとしている男がいた。高級スーツを着た初老の男だ。泥と煤にまみれたスーツ姿でありながら、その立ち振る舞いには、どこか過酷なビジネスの現場で培われたであろう冷徹な理性が漂っている。
『落ち着きなさい。彼らは敵ではないようだ』
男は、画面の割れたスマートフォンを握りしめてうつろな目をしている派手な服の若い女性に対して、流暢なフランス語らしき言葉で語りかけた。カイには正確な意味は分からないが、語気からそう推測できた。女性はビクッと肩を震わせたが、母国語に近い響きを聞いて、少しだけ強張っていた顔の筋肉を緩めた。
続いて男は、青いナース服を着た女性の背中に隠れるようにして震えている、浅黒い肌の少年に向き直った。
『大丈夫だよ。もう安全だ』
今度はポルトガル語のような、ラテン系の響きを持つ静かな語りかけ。少年はナース服の女性をぎゅっと握りしめたまま、小さく頷いた。
(……すごいな。あの人、何ヶ国語話せるんだ?)
カイは部屋の入り口で、その光景に密かに感心した。彼らのような多国籍な漂流者たちがパニックを起こさずにいるのは、あのスーツの男が持ち前の語学力を活かして、彼らの「コミュニケーションのハブ」として機能しているからだ。彼がリーダー格として皆をなだめているおかげで、最悪の暴動やヒステリーは避けられている。
だが、それでも彼らがロゴスのメンバーが差し出す食事や水に一切手をつけていない理由は、単なる警戒心からだけではないことを、カイは知っていた。
「……飲まない方がいい」
カイが日本語で小さく呟きながら部屋に足を踏み入れると、その声に真っ先に反応して、油汚れた作業着を着た中年の男が顔を上げた。日本の町工場で働いていた技術者、サカキだ。
「あんちゃん……! 体、もう動けるようになったのか!」
サカキは、カイの姿を認めるなり、弾かれたように立ち上がって駆け寄ってきた。祭壇の底で、自分たちを縛る光の鎖を引きちぎってくれた少年。この得体の知れない世界で、唯一自分たちと同じ言葉を話す存在。サカキの目には、明らかな安堵の色が浮かんでいた。
「ええ。少し眠ってましたけど、もう大丈夫です」
カイが応えると、サカキは深く息を吐き出し、カイの肩にそっと触れた。
「あの時は、本当に助かった。君がいなかったら、俺たちどうなっていたか……。でも、ここは一体どこなんだ? 君の仲間らしい人たちが世話をしてくれてるんだが、言葉がまったく通じなくて、どうしていいか分からなかったんだ」
サカキとカイが日本語で親しげに話している様子を見て、部屋の奥で固まっていた他の六人もわずかに表情を緩めた。
『アノトキハ……助ケテクレテ、アリガトウ。ニホンゴ……少シ、ワカリマス』
先ほどの高級スーツの男が、サカキの背後から歩み寄り、慎重な口調で話しかけてきた。発音は少し不自然なカタコトの日本語だ。だが、この極限状態にあって、相手の言語に合わせて即座にコミュニケーションの手段を切り替えられるその判断力は、驚嘆に値した。
『私ハ……リチャード、です。……ここは、安全、ですか?』
「俺はカイです。……はい、ここは安全です。教会の連中は追ってこられません」
カイがゆっくりとした日本語で答えると、リチャードと名乗った男は大きく頷き、安堵の息を漏らした。
リチャードはすぐに振り返り、背後にいるナース服の女性や、自転車のヘルメットを被った若者、南国風のタトゥーを入れた格闘家たちに向けて、英語で「彼はカイという名前だ。ここは安全らしい」と状況を説明し始めた。英語圏の人間が多いのか、彼らはその言葉を聞いて目に見えて肩の力を抜き、ナース服の女性も、抱きしめていた少年の頭を優しく撫でた。
「サカキさん。皆さんに、食事と水を取るように伝えてもらえますか。リチャードさんも、そう通訳してください。……ただし、水は俺から受け取ってください」
カイはそう言いながら、部屋の入り口で困惑していたロゴスのメンバーから、水差しの乗ったトレイを受け取った。
「ご苦労様。あとは俺がやるから、仕事に戻ってくれていい」
カイがこの世界の言葉で告げると、メンバーはホッとしたように一礼し、足早に部屋を去っていった。
カイはトレイを部屋の中央の机に置いた。サカキが不思議そうに水差しを覗き込む。
「飲まない方がいいって、どういうことだ? 毒でも入ってるのか?」
「ロゴスの設備でろ過されているので、死ぬような毒じゃありません。ただ、この世界の水は、俺たちあちら側の世界の人間にとっては、まだ成分が『濃すぎる』んです」
透明に見えるその水には、この世界の大気中と同じく、エーテルが溶け込んでいる。この世界の住人にとってはただの飲料水だが、エーテルが存在しないあちら側の世界から来たばかりの人間にとっては、体内で魂と摩擦を起こし、強い拒絶反応を引き起こす原因になり得るのだ。
「そのまま飲むと、胃が受け付けずに吐き戻します。……俺が、余計な成分を完全に抜きます」
カイは水差しの上に、生身の左手をかざした。義手がない今、生身での干渉は魂に直接負荷がかかる。だが、大規模な術式を解体するわけではない。ただの「不純物のろ過」だ。出力のバルブを極限まで絞り、水分子とエーテルの結合点だけをピンセットで摘み出すように弾き出す。
「……分離」
カイが小さく呟いた瞬間。
パチッ。
水差しの中で、静電気のような小さな破裂音が鳴り、水面から紫色のかすかな光がフワリと浮き上がり、空気に溶けて消えた。
「……っ」
カイの魂の表面がヤスリで撫でられたようなわずかな倦怠感が走る。だが、ソフィアとの特訓の成果か、以前スラムで同じことをした時のような激しい頭痛は起こらなかった。出力の制御は、生身でも確実に上手くなっている。
「なんだ、今の光は……?」
サカキが目を丸くし、リチャードや他のメンバーたちも驚きの声を上げる。カイがただの少年ではなく、この得体の知れない世界で「何か」を成し得る力を持っていることを、彼らに視覚的に証明するには十分なパフォーマンスだった。
「もう大丈夫です。普通の水に戻りました」
カイはコップに水を注ぎ、サカキに差し出した。極度の緊張と恐怖で、彼らの喉は砂漠のように渇いているはずだ。サカキは意を決したようにコップを受け取り、一口飲んだ。
「……あ」
サカキの喉が鳴る。少し泥臭いだけの、普通の冷たい水。だが、極限の状況下にあった彼にとって、それは何よりの甘露だったのだろう。彼は一気にコップの水を飲み干し、ふぅ、と長い息を吐き出した。
「……美味い。……生きてるって気がするよ」
サカキの目から、再び涙が滲んだ。
カイは残りのコップにも水を注ぎ、リチャードたちにも勧めた。リチャードが英語で「安全な水だ」と伝え、彼らも恐る恐る口をつける。ナース服の女性からコップを受け取った少年は、両手で大切そうに抱え込んで喉を鳴らした。
彼らが無言で食事を喉に流し込むのを見守りながら、カイは一つ息をついた。落ち着きを取り戻していく中で、サカキの口から彼らの名前が少しずつ語られた。ナース服の女性はアンナ。自転車のヘルメットの若者はジェイソン。格闘家の男はケオニ。派手な服の女性はクロエ。そして少年がマテオ。
とりあえず、最悪のパニック状態は脱した。物理的な渇きと飢えが満たされたことで、彼らの精神状態は少しだけ落ち着きを取り戻したようだ。
だが、ここからが本当の試練だ。理性が戻ってきた分、彼らは自分たちが置かれている絶望的な状況を、客観的に認識し始めることになる。
「……なあ、あんちゃん」
サカキが、硬いパンを飲み込みながら、真剣な顔でカイに向き直った。
「ここは、日本じゃないんだよな。……俺たちは、どうしてこんな暗い地下に隠れてなきゃならないんだ? あの祭壇で俺たちを縛り付けてた連中は、一体何なんだ?」
サカキの問いに、リチャードをはじめとする他の漂流者たちも、食事の手を止めて一斉にカイを見つめた。彼らの瞳には、すがるような期待と、それを打ち砕かれることへの恐怖が混在している。
カイは、膝の上で左手を固く握りしめた。ここで誤魔化しても意味はない。彼らがこの過酷な世界で生きていくためには、現実を直視し、受け入れるしかないのだ。
「……信じられないかもしれません」
カイの言葉が、冷たい金属の部屋に重く響いた。サカキが息を呑む。
「ここは、地球から空間ごと切り離された、隔離された異常な世界です。……あんたたちは、あの教会の連中がこの世界を維持する『燃料』にするために、無理やり向こう側の世界から引きずり込まれたんです」
理解を絶する残酷な真実。サカキの顔から血の気が引き、リチャードが目を見開いて言葉を失い、部屋の空気が再び凍りつく。
だが、カイは彼らから目をそらさなかった。同じ世界から弾き出された同郷人たちを前に、彼が背負うべき責任の重さが、確かな輪郭を持ってのしかかってくる。
「説明します。俺が知っている、この狂った世界のすべての理屈を」
カイは、ただ静かに、絶望の淵に立つ彼らへ向けて真実を語り始めた。




