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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
箱舟の亀裂

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第88話 泥の底の安息

 泥のような、重く深い暗闇の底から、意識がゆっくりと浮上していく。


 最初に知覚したのは、鼻腔を突く消毒液の匂いと、微かに混じる焦げたような煙草の煙だった。


(……ここは……)


 重い瞼を押し上げる。視界にぼんやりと映ったのは、継ぎ目のない金属板で覆われた天井と、そこを這う太い配管だった。低い駆動音が、遠くの心臓の鼓動のように規則正しく響いている。レジスタンスの地下拠点、『ハビタ・ゼロ』の医務室だ。


 カイは、乾ききった唇を微かに動かした。喉が砂漠のように渇いている。体を起こそうとして、全身の筋肉と骨が同時に悲鳴を上げた。激しい運動後の筋肉痛などという生易しいものではない。自分という存在の輪郭そのものが、粗いヤスリで削り取られたかのような、ひどい倦怠感ときしみ。


 『魂蝕(こんしょく)』の余韻だ。星見の祭壇でのマリアンヌとの死闘、そして撤退戦での強引な能力行使。生身に近い左手一本で、世界の理不尽な歪みに干渉し続けた代償が、容赦なく肉体にのしかかっていた。


 視線を下に向ける。右肩には、分厚い包帯が巻かれている。失われた右腕。そして左手。ヴォルグが急ごしらえで作ってくれた『耐熱グローブ』はすでに外されており、剥き出しになった左腕から手の甲にかけて、赤黒い火傷の痕が痛々しく残っていた。


「……気がついたのね、無茶苦茶な修復者(レパラトル)さん」


 気だるげな声と共に、紫煙が視界を横切った。ベッドの脇に置かれた丸椅子に深く腰掛け、足を組んでいたのは、医療主任のヘレナだった。白衣の下にラフなシャツを着た彼女は、目元の濃い隈をさらに深くして、灰皿にタバコを押し付けた。


「……三日よ。三日間、貴方の魂の熱は下がらなかった。ただでさえ絶縁体の魂を摩擦させて熱を持ってるのに、生身に近い状態で事象の核を直接鷲掴みにするなんて、正気の沙汰じゃないわ。あの耐熱グローブがなかったら、貴方、左腕どころか存在ごと消し飛んでたわよ」


 ヘレナの言葉には、医者としての呆れと、隠しきれない安堵が混じっていた。


「……三日、か」


 掠れた声が出た。カイは左手をゆっくりと握り、そして開いた。指先は動く。痛みはあるが、神経は繋がっている。


「……エリスさんが、やってくれたのか」


「ええ。彼女がずっと、貴方の荒れ狂う魂の波形に、自分の波長を重ねてクールダウンさせていたのよ。さっきやっと安定期に入ったから、仮眠を取らせに行かせたわ」


 エリスの『共感覚(バイオ・ソナー)』による調律。盲目の彼女が、どれほどの時間、カイの放つ痛みのノイズに耐えながら寄り添ってくれていたのか。カイは胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……悪い。迷惑をかけた」


「迷惑をかけるのはお互い様よ。それに、貴方が身を挺してくれたおかげで、連れ込まれた漂流者たちも無事に保護できた。……まあ、あっちの居住区画は、言葉の通じないパニック状態の連中の世話でてんてこ舞いみたいだけどね」


 サカキたち同郷の人間の顔が脳裏をよぎる。彼らが無事であると聞き、カイは深く息を吐き出した。


「……俺の体は、あとどれくらいでまともに動けるようになる?」


「歩くくらいなら今すぐでもね。でも、戦うのは論外よ。左手の火傷の痕が塞がるまで、最低でもあと数日はかかる。それに、魂の摩耗は薬じゃ治らないわ」


 ヘレナは立ち上がり、カイの枕元に水の入ったコップを置いた。


「……みんなは、無事なのか?」


 カイが水を一気に飲み干しながら尋ねると、ヘレナは肩をすくめた。


「生きてはいるわ。……まあ、自分の目で確かめに行きなさい。食堂の方にいるはずよ」






 カイは、ヘレナから渡された替えのシャツを左手で不器用に羽織り、医務室を出た。冷たい金属の廊下を歩く。足元はおぼつかないが、一歩ごとに血が巡り、体が現実の重さを取り戻していくのを感じた。


 食堂の扉を開けると、そこには数人のメンバーがいた。


「おお! お目覚めか、カイ!」


 一番奥の長机から、豪快な声が飛んできた。実働部隊のジャンだ。彼は立ち上がり、ニカッと白い歯を見せて笑いかけてきた。だが、その姿を見た瞬間、カイは思わず息を呑んだ。


 ジャンの体は、痛々しい姿に変わっていた。ルタムでの『エクリプス』との死闘。仲間を庇い、巨大な盾ごと熱波を受け止めた結果、彼の左腕から脇腹にかけての肉は無惨に抉り取られていた。拠点での本格的な治療を経て傷口自体は塞がっているようだったが、抉られた部位には分厚い包帯が幾重にも巻かれ、その上からプロメテウスの職人たちが作ったであろう、黒鉄の特注プロテクターが傷跡を保護するように装着されていた。


「……ジャン、あんたのその傷」


「ああ、これか? 勲章みたいなもんだ。左腕が少し軽くなっちまったが、その分、新しい盾を振るう速度が上がるってもんよ」


 ジャンは自分の左腕のプロテクターを、右手でバンバンと叩いてみせた。強がりではない。彼は本当に、そのハンデを欠損ではなく、生き延びた証として受け入れているようだった。


「ジャンばっかりカッコつけないでよね」


 ジャンの隣に座っていたヴァレリーが、呆れたように息を吐きながら立ち上がった。彼女の姿もまた、歴戦の凄みを漂わせていた。いつものラフなタンクトップ姿だが、彼女の両腕から肩口にかけて、目を引くような生々しい傷跡が刻まれていた。それは、仲間を逃がすために、自らの神経を焼き切るほどの過剰な雷撃を放った代償。皮膚の表面に、雷が走ったような幾何学的なシダの葉の模様が、赤い火傷の痕となって残っている。


「……ヴァレリー。その火傷痕」


「気にしないで。ちょっとばかり無理をして、ヒューズが飛んじゃっただけよ。……でも、悪くないデザインでしょ?」


 ヴァレリーは不敵に笑い、自分の肩口の傷跡を指でなぞった。


「あんたが教えてくれたのよ。痛いからって立ち止まるのは、あたしたちの柄じゃないってね。この傷は、あのイカれた連中に一矢報いた証拠よ」


 二人の姿に、カイは胸を突かれた。俺たちは、教会の理不尽な力の前に、一度は完全に敗北した。肉体を削られ、決して消えない傷跡を刻まれた。普通なら、恐怖に心を折られ、戦うことを放棄してもおかしくない。だが、彼らは笑っていた。消えない傷跡というハンデを抱えながらも、不敵な笑みを絶やさず、ベテランとしての凄みを見せながら再び前線に立つ覚悟を決めている。その頼もしい姿が、カイの心の中にあった暗い澱を吹き飛ばしてくれた。


「……ああ。そうだな。俺たちはまだ、負けちゃいない」


 カイは、残された左手を強く握りしめた。右腕がない。左手もボロボロだ。だが、この仲間たちがいる限り、絶対に立ち止まりはしない。


「随分と活気づいているようね、負傷兵の皆さん」


 食堂の入り口から、凜とした声が響いた。振り返ると、真っ白な白衣を羽織ったソフィアが立っていた。彼女の首元には戦術連携の中継器である『共振盤(レゾナンス・プレート)』が下がり、手には分厚い資料の束と石板型のデバイスを抱えている。


「ソフィア。……お前も、怪我はないか?」


「私を誰だと思っているの。安全な距離から観測するのが私の仕事よ」


 ソフィアはいつものように少しだけ顎を上げてふふんと笑ったが、その目元には、彼女もまた三日間ろくに眠っていないであろう疲労の色が滲んでいた。彼女はカイの前に歩み寄り、その黒い瞳でカイの顔をじっと見つめた。


「……無茶ばかりするわね、本当に。でも、生きて戻ってきてくれてよかったわ」


 その言葉には、素直な安堵が込められていた。


「心配かけた。……で、状況はどうなってる? あの雲で強引に塞がった空の亀裂……やっぱり、ただじゃ済んでないんだろ?」


 カイの問いに、ソフィアの表情がサッと引き締まった。研究者としての、冷徹な観測者の顔。


「ええ。むしろ、状況はより深刻かもしれないわ」


 彼女は石板のデバイスをテーブルに置き、空中の立体投影を作動させた。映し出されたのは、スラム周辺の上空のデータモデルだ。


「亀裂は塞がったけれど、その向こう側……雲の裏側で、いびつなエネルギーの膨張が続いているのよ」


 投影された地図の空の部分が、赤い警告色で脈打っている。


「マリアンヌの儀式を無理やり止めたことで、世界の循環機構そのものが、圧力を抱えきれなくなって悲鳴を上げている状態ね。時折、塞がったはずの雲の隙間から、紫色の原エーテルが漏れ出しているのを観測したわ。そのせいで、局所的に空間の温度や重力が狂う現象も確認されているの」


 圧力が抜けずに、風船が内側から膨れ上がり続けている。カイは、その危険性を即座に理解した。この世界は、ただでさえエネルギーが充満した密室だ。その循環システムが致命的なダメージを負い、圧力を逃がす場所がなくなっているのだとしたら。いずれ、この大陸そのものが内側から弾け飛ぶことになる。


「まだ猶予はあるわ。でも、長くない」


 ソフィアが静かに告げた。ジャンもヴァレリーも、黙ってその言葉を受け止めていた。


「俺が壊したんだ。……俺が、直すしかない」


 カイは、自らの左手を見つめた。マリアンヌの儀式を止めたことに後悔はない。同郷の人間たちを救うためなら、何度でも同じことをする。だが、その結果として世界が悲鳴を上げているのなら、その責任は取らなければならない。


「直すって言っても、カイ。あんたのその右腕じゃ、まともに戦えないわよ」


 ヴァレリーが、カイの右肩の喪失部分を指差して言った。


「それに、まだエクリプスの本隊も残ってる。今のあたしたちじゃ、まともにやり合えば今度こそ灰にされるわ」


「ああ、分かってる」


 カイは顔を上げ、仲間たちを真っ直ぐに見据えた。


「だから、準備が必要だ。まずは、親父さんのところへ行く。このままじゃ戦えないからな。それから、保護した同郷の連中にも顔を出しておく」


 失われた右腕。それは、単なる物理的な欠損ではない。強大な敵の術式を解体し、過剰な熱を逃がすための絶対不可欠な冷却機構だった。再び生身で戦えば、今度こそカイの魂は燃え尽きる。


「忙しくなるわね」


 ソフィアがかすかに微笑んだ。


 カイは、次なる準備のために医務室を後にし、工房へと続く重い金属扉に向かって歩き出した。

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