第87話 歪みゆく帰路
光の届かない古代の地下水路を、重く引きずるような足音が進んでいく。
教会の追手を撒くため、ヴィクトルの案内で迷宮のように入り組んだルートを急ぐ一行。満身創痍のジャンとヴァレリーが、引きずり込まれたばかりの漂流者七人を挟み込むように守り、カイとソフィアが最後尾で警戒に当たっていた。
「……はぁ、はぁ……」
あちら側の世界から来た彼らの、荒い息遣いと足のすくむ音が響く。無理もない。突然異世界に放り込まれ、死の恐怖を味わった直後に、腐敗臭と湿気に満ちた暗い泥道を歩かされているのだ。だが、この地下道は、以前カイたちが通った時とは明らかに様子が違っていた。
「……あの、君。なんだこれ。水が……上に向かって流れてるぞ?」
彼らの中でただ一人、カイとまともに言葉を交わせる作業着姿のサカキが、壁を指差してひきつった声を上げた。サカキの目には、無骨なレジスタンスの戦闘服を纏い、片腕を失いながらも最後尾で油断なく警戒を続けるカイの背中が、ひどく遠く、歴戦の戦士のように見えていたことだろう。サカキが指差した先では、水路を流れるはずの汚水が、重力の法則を完全に無視して壁面を這い上がり、天井に向かって逆流していた。それだけではない。足元に転がっていた石ころが、フワフワと無重力空間のように宙を舞い、吐く息の白さが局所的に熱を帯びて蜃気楼のように歪んでいる。
「……空間の定義が、メチャクチャになっているわ」
ソフィアが片目に装着した『観測鏡』越しに周囲を見回し、青ざめた顔で唇を噛んだ。
「大気中のエーテルが、異常な乱気流を起こしてる。重力も、熱も、摩擦係数も、何一つ安定していない。……世界が、物理的なエラーを吐き出しているのよ」
「どういうことだ? 結界に開いた亀裂は、すぐに塞がったはずだろ?」
カイが問うと、ソフィアは首を横に振った。
「亀裂は塞がっても、中の『圧力』が狂ってしまったの。マリアンヌが儀式のために地脈から限界まで吸い上げていた莫大なエネルギーが、貴方の解体で行き場を失い、この大陸の循環システムに猛烈な勢いで逆流しているのよ!」
「……ウォーターハンマーか」
不意に、サカキが呟いた。彼は宙に浮く石を避けながら、天井に走る古代の太い配管を見上げるようにして言った。
「工場の高圧配管で、メインバルブが急にぶっ壊れたり、水流が無理やりせき止められたりした時に起きる現象だ。行き場をなくした水圧が配管の中で暴れ回って、あちこちに異常な圧力をかけて……最悪の場合は、工場全体を内側からぶっ壊しちまう」
サカキの日本の技術者としての例えは、この世界が陥っている現状を恐ろしいほど的確に表していた。カイは息を呑んだ。
(俺が……俺の強引な解体が、この世界の循環システムに致命的なエラーを引き起こしたのか)
マリアンヌが崩れゆく祭壇で残した、呪いのような言葉が脳裏に蘇る。
『この綻びこそが結界の終焉。……貴方が、この世界を殺すのです』
その時だった。
「気をつけろ! 波長が乱れるぞ!」
先頭を歩いていたヴィクトルが低く叫び、義眼を赤く光らせた。空間の歪みが限界に達し、エーテルの乱気流が渦巻く水路の奥から、ドロドロとした紫色の汚泥が壁を突き破るように盛り上がってきた。不純なエネルギーの偏りが生み出した『澱の怪物』。それが、いびつな多足の獣のような形を成して、通路を塞ぐように立ちはだかった。
「ヒッ……!?」
同郷の漂流者たちが悲鳴を上げて後ずさる。スーツ姿のリチャードでさえ、理解を超えた異形の出現に顔を青ざめさせて壁に張り付いた。
「下がってろ! 俺がやる!」
ジャンが、半分溶け落ちた大盾を構えて前に出た。だが、ルタムの戦いで負った傷は深く、踏ん張りが効かない。怪物の触手による重い一撃を受け、ジャンは苦悶の声を上げて大きく後退した。
「チッ、大気中の絶縁性が狂ってて、雷の出力が安定しないわ!」
ヴァレリーが魔導ライフルから雷撃を放つが、空間のエーテルが乱れすぎているせいで、雷は真っ直ぐ飛ばずに空中で霧散してしまう。前衛の二人は、すでに限界を超えていた。
「カイ!」
「分かってる!」
カイは、怯える七人を庇うように前に飛び出した。右腕はない。頼れるのは、ヴォルグが応急処置で作ってくれた、冷却触媒と聖銀の粉末をコーティングした左手の『耐熱グローブ』一本だけ。
(ソフィアのナビゲートを待ってる暇はない。……自分で視るんだ!)
カイは目を凝らし、怪物を形作っている乱れたエーテルの結び目を探る。極限の集中が、時間の流れを遅くする。見えた。紫色の濁りの中で、周囲の瓦礫とエネルギーを無理やり繋ぎ止めている、歪な縫い目。
「……そこだッ!」
カイは、怪物の核となる一点へ向けて、左手を突き出した。
「事象解体!」
バチィィィンッ!
青白いスパークが弾け、怪物を構成していたエネルギーの結合が物理的に断ち切られる。泥の怪物は断末魔のノイズを上げ、ただの汚水と瓦礫に戻って崩れ落ちた。続けて二体目、三体目。カイは左手一本で、迫り来る異常事象の核を正確に鷲掴みにし、握り潰していく。グローブから処理しきれない熱が白い蒸気となって噴き出し、左手の神経がチリチリと焼けるような悲鳴を上げる。
その光景を、背後で見ていた七人は息を呑んでいた。聖譜という理不尽な暴力。そして、それを「素手」で破壊し、異常な現象を断ち切る、黒い瞳の少年。特にあの高級スーツの男は、震える手で泥だらけのネクタイを握り締めながら、カイの背中を食い入るように見つめていた。彼の打算的な頭脳は、あの少年がこの狂った世界において、どれほど「異常で、規格外な存在」であるかを正確に弾き出していた。
彼らは、自分たちが放り込まれた世界が、あちら側の常識が一切通じない狂った地獄であることを、その身をもって完全に理解したのだ。
「……スーツのおっさん!」
怪物を泥に還し、息を切らしたカイが、高級スーツの男に向かって叫ぶ。
「ボーッとしてる暇はない! 走れ!」
男はハッと我に返り、「ムーブ! ムーブ!」と他の者たちを促して再び走り出した。
狂い始めた物理法則と、次々と湧き出す澱の怪物。満身創痍の体を無理やり動かし、カイたちは何度か怪物との遭遇戦を乗り越えながら、暗い地下道をひたすらに進んだ。左手の耐熱グローブは熱で焦げ焦げになり、カイ自身の魂も摩耗しきって限界を迎えていた。
やがて。
「……見えたわ! ハビタ・ゼロの隔壁よ!」
ソフィアの叫び声に、全員の顔が上がる。通路の奥に、見慣れた重厚な鋼鉄の扉があった。ヴィクトルの合図で、扉が重い排気音を立てて持ち上がる。
「カイさん! みなさん!」
扉の向こう側から、シエロとエリスが駆け寄ってくる。そして、銀縁眼鏡をかけたゲルハルトが、厳しい表情で待ち受けていた。
「……よく生きて戻った」
ゲルハルトの言葉を聞いた瞬間、カイの足からついに力が抜けた。
「……っ」
膝から崩れ落ちそうになるカイを、ジャンとソフィアが両脇から支える。
「……悪い。連れてきちゃった」
カイは、背後で怯えながら固まっている七人の漂流者たちを振り返って、掠れた声で言った。
「保護、頼む……」
ゲルハルトは彼らを一瞥し、静かに頷いた。
「ああ。我々が責任を持って保護しよう。……君はもう休め。見事な仕事だった」
カイは、最後に自分の左手を見た。ボロボロに焼け焦げたグローブ。この手で、俺は同郷の人間を救った。だが同時に、この手で、世界の循環に致命的な破綻を引き起こしてしまったのだ。
これから始まるのは、教会の追手との戦いだけじゃない。狂い始めたこの世界そのものを、どう修復するかという、途方もない戦いだ。
俺が壊した。だから、俺が直す。その重すぎる責任を魂に刻み込みながら、今はただ。
(……少しだけ、休ませてくれ)
カイの意識は限界を迎え、深い、深い闇の中へと落ちていった。
第6章:偽りの福音 「完結」




