第86話 同郷の言葉
空を覆っていた巨大な亀裂が、紫色の濁流によって強引に縫い合わされていく。一瞬だけ顔を覗かせた故郷の星空が、再び分厚い雲の向こう側へと消え去った。
崩落の止んだ祭壇の外縁部。土煙と焦げた匂いが漂う中、召喚された七人は、唐突な絶望と安堵、そして現在地の異常さに完全にパニックを起こしていた。
「……シット! ワッツ・ゴーイング・オン! サムバディ、エクスプレイン!」
自転車のヘルメットを被った配達員風の若者が、頭を抱えて英語で喚き散らす。
「……ノン・レゾー! アロー、ポリス!? オー、モン・デュー……ッ!」
華やかな服を着た若い女性は、画面の割れたスマートフォンを必死にタップしながら、フランス語らしき言葉で悲鳴を上げている。南国風のタトゥーを入れた屈強な格闘家は、見えない敵を威嚇するように太い腕を振り回し、青いナース服を着た女性は、泣きじゃくる浅黒い肌の少年をその身で必死に庇っていた。
言葉が通じない恐怖。常識が通用しない世界への転落。彼らの混乱は痛いほど分かった。かつて自分自身が、澱の街の路地裏で味わった絶望と全く同じものだからだ。
カイは、息を整えながら彼らの中の一人へ歩み寄った。油と泥にまみれた、グレーの作業着を着た中年の男。彼は他の者たちのように喚き散らすことはせず、へたり込んだまま、崩れゆく祭壇の床――マリアンヌが描いた紫と黄金の幾何学模様を、食い入るように見つめていた。
「……立てるか?」
カイは、男に向かって手を差し出し、日本語で声をかけた。狂った異世界で、唐突に響いた母国語。男はビクッと肩を震わせ、信じられないものを見るように顔を上げた。タオルを首に巻き、少し無精髭を生やした、どこにでもいる日本の「町工場のおっちゃん」の顔だった。
「……え? 君、今……日本語、しゃべったのか?」
男の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。彼はカイの泥だらけの左手を両手でしっかりと握りしめ、すがるように立ち上がった。
「日本人なのか!? ああ、よかった……! 俺はサカキだ。富士山の麓で、小さな旋盤工場をやってる。……ここは、どこなんだ? あの白い服を着た外国人の女が、いきなり光って……」
「ここは日本じゃない。……いや、地球の一部ではあるらしいが、俺たちの知ってる現実からは完全に切り離された『隔離空間』だ。あんたたちは、あいつらの都合で無理やりここに引っ張り込まれたんだ」
カイは、できるだけ穏やかな声で答えた。サカキの分厚く、タコだらけの手。それは、スラムで剣を振るう騎士たちの手とも、ヴォルグのような豪快な職人の手とも違う。毎日コツコツと、ミリ単位の精度で金属を削り出してきた、誠実で繊細な技術者の手だった。
「隔離空間……? そんな馬鹿な。……でも」
サカキは、震える手で祭壇の床を指差した。
「さっき、俺たちを縛ってたあの光の鎖。あれ、ただの幻覚じゃない。……床の模様が、まるでプリント基板の配線みたいに繋がってて、そこからエネルギーが流れてるのが、なんとなく『見えた』んだ。……俺、頭がおかしくなっちまったのか?」
カイは目を見張った。この混乱の中で、陣の構造を「配線」として視覚的に捉えていたのか。おそらく、この過酷な環境に引っ張り込まれたことで、彼自身の魂が適応し、職人としての観察眼が『能力』として発現しかけているのだろう。
「あんたの頭は正常だよ、サカキさん。……あれはただの、できの悪いエネルギー回路だ。あんたの見た通りだよ」
カイが頷くと、サカキは深く息を吐き出し、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
「……そうか。君が、あの配線をぶっこ抜いてくれたんだな。……助かったよ」
サカキとカイが日本語で言葉を交わしている様子を、一人の男が鋭い視線で観察していた。泥だらけの高級スーツを着た白髪交じりの男だ。彼は恐怖で顔を青ざめさせながらも、ビジネスの最前線で培ってきたような鋭い観察眼と打算的な計算を、フル回転させていた。
(……あの言語は、日本語。サカキという男と同じ国の出身か。そして、あの少年は我々を縛っていた拘束を破壊した)
男の脳内で、状況が冷徹に整理されていく。あの少年は、自分たちを拉致した狂信者たちの仲間ではない。明確に敵対しており、しかもこちらの言葉が通じる「味方」だ。ならば、今最も生存確率を高める行動は、彼に従うこと。
「ヘイ、エブリワン! カーム・ダウン!」
高級スーツの男は、埃を払いながら立ち上がり、パニックに陥っている他の五人へ向かって、よく通る流暢な英語で叫んだ。
「ヒー・イズ・ノット・エネミー。ヒー・イズ・オン・アワ・サイド!」
学校の授業で聞いたことのある英単語。カイの耳にも、彼が『落ち着け、彼は敵じゃない』と説得していることだけは分かった。男が、カイを指差して堂々とした態度で説明を続ける。その状況を掌握するような声色と、論理的な英語の響きに、ヘルメットの若者が口を閉じ、格闘家が構えていた拳を下ろした。ナース服の女性や、華やかな服を着た若い女性も、彼が味方であることを理解して安堵の息を吐く。唯一、言葉が分からない浅黒い肌の少年も、大人たちの張り詰めていた空気が緩んだのを察し、その場にへたり込んだ。
「……スーツのおっさん、やるじゃないか」
カイは、咄嗟の機転に感心した。言葉が通じない集団をまとめるには、それぞれの言語のハブになる人間が必要だ。サカキがカイとの繋がりを証明し、あの男がそれを論理的に周囲へ翻訳して伝える。絶望的な状況下で、彼らは無意識のうちに生存のためのネットワークを構築していた。
「無事だったみたいね、アンタたち。……大所帯になっちまったわ」
すぐ後ろで、魔導ライフルを杖代わりにしたヴァレリーが、息をつきながら声をかけてきた。その隣では、焼け焦げた半分の盾を下ろしたジャンが、泥だらけの顔でニカッと笑っている。二人とも満身創痍だが、戦意は失っていない。
「ああ。怪我はないか、ジャン、ヴァレリー」
「俺の筋肉を舐めるな。だが、早くここをズラかった方がいいぜ。……お出ましだ」
ジャンが顎でしゃくった先。すり鉢の縁のさらに外側から、音もなく灰色の影が舞い降りてきた。レジスタンスの遊撃手、ヴィクトルだ。周囲の警戒に当たっていた彼は、機械仕掛けの義眼で夕闇の迫る空を冷徹にスキャンしながら、カイたちの元へ着地した。
「カイ。教会の増援だ」
ヴィクトルは、感情の起伏を感じさせない平坦な声で告げた。
「祭壇の崩壊と地脈の逆流を察知し、首都から先遣隊が向かってきている。到着まで、およそ十五分」
「私の観測鏡でも、多数のエーテル波形を捉えたわ。……すぐに地下へ退避するべきよ」
ヴィクトルの報告を裏付けるように、カイの隣に立っていたソフィアが、青ざめた顔で付け加える。
「……分かった」
カイは頷き、漂流者たちへ向き直った。
「サカキさん! 追手が来る。俺たちについてきてくれ。他の連中にも伝えてくれ!」
「お、おう! 分かった!」
サカキが身振り手振りで高級スーツの男に伝え、男が「ムーブ!」と他の者たちを即座に促す。
カイたちは、負傷したジャンとヴァレリーを中央にし、戦闘力を持たない漂流者七人を庇うようにして、祭壇の裏手に広がる岩場へと駆け出した。ヴィクトルが先導し、偽装された巨大な岩を力ずくで押し退ける。その下には、教会の地図には載っていない、古代インフラの隠し通路――『ハビタ・ゼロ』へと続く暗い階段が口を開けていた。
「早く降りろ! 急げ!」
カイは、最後尾で彼らが一人残らず階段を降りるのを確認した。
背後からは、教会の使い魔が放つ不快な羽音と、軍馬の嘶きが風に乗って聞こえ始めていた。カイは、暮れゆく紫色の空を一度だけ睨みつけ、隠し通路の重い石扉を内側から固く閉ざした。光の届かない、暗く冷たい地下道。狂い始めた世界を背に、彼らは長く過酷な帰路へと足を踏み入れた。




